第34話「危険に満ちたコテージ」
「落ち着くんだ、ティナ。小国とはいえ、人口三百万人は超えている――その全員を完全に把握するのは不可能なんだ」
両腕を掴み、レイはティナの顔を覗き込むように言った。それも、一言一言区切るようにしっかりと発音して。
「で、でもっ!」
「静かにしないなら、キスすることになる」
レイの目に危うげな光が浮かび、ティナは一瞬で口を噤んだ。
「良い子だ、お嬢さん。そのままお利口にしていてくれ。判ったね」
ティナが黙り込むと、レイはコテージの奥に姿を消した。
その二分後、一斉に灯りが点る。薄闇に包まれた寒々しいコテージから、大量の光が溢れ出した。ティナは眩しさに目を細める。
「電気が来ていて助かった。ブレーカーが落ちていただけらしい。水道も問題ない。キッチンもシャワーも使える。……お世辞にも綺麗とは言い難いが」
レイはチョコレート色の髪に光のシャワーを浴びながら、ティナの元に戻ってきた。煌々としたライトの下で見るレイは、やはり特別だ。寂れたコテージの中にいても、彼を取り巻く空気は凛然と澄み切っている。
ティナはレイから視線を外し、ざっと室内を見回した。
玄関を入ってすぐにリビングとダイニングがあり、カウンター式のキッチンもある。キッチンの横に、奥に繋がる通路があり、レイが戻ってきたのもそこからであった。
「ガスも使えるの?」
「このコテージはオール電化なんだ」
古そうに見えて、設備は最新のものを入れてあるようだ。
だがレイの言葉通り、とても綺麗とは言えない。ティナがキッチンカウンターに指を置き表面を拭うと、指先は真っ白になった。相当埃が積もっている。
「まだ三時だ。シーツを替えればすぐに眠れるだろう。朝には人が来て、君が困らないようにしてくれる。数日の辛抱だ。いいね、ティナ」
ティナはその言葉にドキンとした。
(私が困らないように? じゃあレイは?)
レイは冷蔵庫を開け、中を覗き込んでいる。だが、電気の止まっていた冷蔵庫に食べ物などあるはずがない。案の定、レイは顔を顰めて慌てて冷蔵庫のドアを閉めた。
「朝食も運んでもらえるように言っておこう。着替えはちゃんと持ってきたね?」
「待って、レイ!」
ティナは黙っていられず、レイに向かって一歩踏み出した。
「あなたはどうするの? 一緒じゃないの?」
その質問に、レイは困ったような顔で答えた。
「私は本島に戻らなければならない。今回の件を大きな問題にせず、収めるつもりでいる」
当然と言えば当然の答えだ。レイはティナを匿うために、補佐官や警護官の目を欺いてまで、ティナを王宮から連れ出してくれた。
レイの気遣いは判る。だがティナも、いきなりこんな場所に連れて来られたのだ。
「私は……独りでここにいるの?」
「朝には人が来る。それまでの」
「イヤよ! だったら私も本島に戻るわ」
無茶を言っているのは判っていた。
ティナ自身、マスコミの怖さはよく承知している。彼らはハイエナだ。僅かでも肉が残っていれば、銜え付いて放さないだろう。
「――ティナ」
「私の気持ちは伝えたはずよ。なのに……私にバングルを持っていて欲しくないと言うなら、そう言ってくれたら良かったのよ! あんな宝石と引き換えにしなくても、ちゃんと返したわ!」
もちろん、あのエメラルドの三点セットは丁重にお返しした。
恋に目覚めたティナには不要なものだ。何を犠牲にしてもレイが欲しい。レイの傍にいたい。ティナの胸の中はそれだけだった。
でも、叶えてはくれないと言うなら……。一刻も早く、ティナをアメリカに返して欲しかった。
「答えを頂戴。私をどうするの? シン国王の王妃にする? それともしない?」
「君を兄の妃にはしない。そう言ったはずだ。今の君は相応しくない、と」
その言葉を聞き、ティナは床に置いたバッグを持ち上げた。
そして、つかつかと玄関まで歩き、外に出ようとする。
「ティナ! どう言えば判るんだ? 全く、君はなんて気が短くてわからずやなんだ」
「どうせ“わからずや”よ! アメリカに帰るわ。そのほうが良いんでしょ?」
「ああそうだ。安全に私が君を送り届ける。その約束だ。だから、今の状況では不味いんだ」
ティナは、そんな言葉が聞きたいわけではなかった。
皇太子のレイに、婚約を破棄して自分を選んで欲しいなんて、言うつもりはない。あのシン国王の妃だからこそ、ティナは選ばれた。自分が王妃に相応しい身分でないことは良く判っている。事実がどうあれ、クリスティーナ・メイソンは疵物なのだ。レイもそう思っているはずであった。
しかし、それならキスなどして欲しくなかった。
好意を持つ相手から、何度もキスされたら……。ティナでなくとも勘違いするだろう。
「もういいわ。色々言われるのは慣れてるから。ミスター・サトウが言ってたわ。王妃のティアラが目当てなんだろう、って。レイ、あなたのね。マスコミにそう言えばいいわ。悪い女に誘惑された。でも、もう国に送り返した。あなたが言えないなら、私が言ってあげる。――裸になって誘惑しようとしたけれど、もう知ってるって言われたわ。ああ、ひょっとして皆さんもご存知かしら」
ティナの瞳から涙が零れ落ちる。声も少し震えて……それでも彼女は、必死で笑おうとした。
その瞬間、ティナはレイの胸に抱き締められた。
それは、最初の出逢いを思い出す抱擁であった。顔を上げると、そこにはアズウォルドの海を映しこんだ瞳がティナを見下ろしている。
「レイ……私」
「黙るんだ」
もう一度愛を告げよう……最後にもう一度。ティナがそんな想いで開いた唇は、レイの唇によって強制的に閉じさせられたのであった。




