夜明けをわたしに 中編
エベラルドは高地で羊の世話をする一族の元で育った。
生まれは麓の村だが、産後の肥立ちが悪かった母を早くに亡くした。そのとき村にはエベラルドに乳をやれるような女がおらず、山に暮らす出産直後の女に預けられた。
彼は乳兄弟と一緒に育ち、その後夫を亡くした養母に付いて、再婚相手の家で暮らすことになった。
そこで生まれたのがアデライダだ。
再婚相手の家にはエべラルドよりもひとつ歳下の娘がおり、兄姉三人で競い合うようにして、生まれたばかりの妹の世話をした。
エベラルドは十歳になる頃には、義妹への恋心を自覚していた。
それは彼女も同じで、エベラルドは十二歳になると麓の村で見聞きした知識を総動員して、彼女にくちづけて約束をした。
もう少し大人になったら麓の村で働くから、みんなが俺達が兄妹だってことを忘れた頃に一緒になろう。
彼女は嬉しそうに頬を染めてうなずいた。
大人に見咎められることを恐れたふたりは羊の群れのなかにしゃがみこんで、時々そうやって唇を合わせた。
空の色を映した彼女の瞳はいつもキラキラしていて、物語のお姫さまを飾っている宝石だって、この輝きには勝てっこないと思っていた。
幸せだった。
麓の村以外とは交流のない奇妙に閉鎖された集落だったが、幼かったエベラルドにとっては、そこが世界のすべてだった。
夏になるとやって来る羊の世話をして、秋から春にかけては獣を狩り、山菜や木の実を採って暮らした。雪に閉ざされてしまったら、備蓄量を気にしながら身を寄せ合って春を待つ。
貧しくとも飢えることはなく、心豊かに暮らしていた。
そこでは武器は、羊を狙ってやって来る狼と戦うためのものでしかなかった。みなで助け合い、すべてを分け合って生きていた。
知識として人間同士の戦や騎士の存在を知ってはいたが、空想上のもののように思っていた。
あの夜までは。
エベラルドはその日の夜、久しぶりに夜中にむずかるアデライダをなだめながら、家の外に出ていた。
いいよ、母さんは寝てなよ。彼はそう言って、可愛がっている妹を抱き上げたのだ。
「どうしたアデラ。泣いてちゃ分かんないよ。怖い夢でも見たのか?」
「んーん」
アデライダはえぐえぐと泣きながら、涙と洟水でどろどろの顔を兄の肩に押しつけた。
「うわ、きったないなあもう」
エベラルドは苦笑して、妹の背中をとんとんと叩いてやった。
秋に入って羊は村に帰った。夏の間は涼しく過ごしやすい集落だが、他の季節は寒さに凍えている。
ぽかぽかと温かい四歳児を抱えていても夜の寒さは身に染みこんできて、足踏みだけでは足りなくなったエベラルドは、すたすたと歩き出した。
大部分が羊の好む短い草で覆われている山だが、集落は低木や茂みのある場所を選んで造られていた。
獲物となる羊が去った今、狼に襲われる心配は少なかったが、エベラルドは集落から遠く離れることはせず、茂みの向こうに広がる草原を意味もなく歩いた。
彼が異変に気づいたのは、アデライダがようやくうとうとし始めた頃だった。
集落が騒がしい。こんな夜中に? まさか狼? それとも他の何事かが起きているのか?
幼い恋の相手の安否が気になったが、小さな妹を抱えて危険に飛び込むことはできなかった。
エベラルドはアデライダを起こさないよう慎重に、家族が眠る小屋の裏に近づいて行った。
彼は一度だけ、集落が茂みや樹木に隠れるように位置している理由を養父に訊いてみたことがある。
「そうだなあ。知らない人間からは見つかりにくいようにしたほうがいいんじゃないか? 何かあったときに姿を隠す場所も欲しいし」
「なんで? 親父がデンカとかオウジ、とか呼ばれる人だから?」
「そうかもな」
髭もじゃ親父のどこが王子だ。王子様ってのはもっとキラキラしてる生き物なんだろう。母さんがアデライダに話して聴かせると喜ぶ物語に出てくる王子は、みんなそうだ。
そうかもな。
養父は豪快に笑って、実子と同じかそれ以上に可愛がっているエベラルドを抱き上げた。
確かに茂みは、エベラルドと小さな妹の姿を隠してくれた。
これまで話の中にしか存在しなかった武装集団が、集落に現れた。眠りから覚めた大人達が次々に拘束され、なかには背中から斬られる者もいた。女や子どもの泣き叫ぶ声があちこちで上がっている。
エベラルドの恋人が、小屋からまろび出てくるのが見えた。つまずいて転んだその小さな背中に、一筋の光が差しこまれた。
ああ。あれは剣だ。騎士とかいう奴が振りまわす刃物だ。
彼女の命が失われていくのを、エベラルドは呆然と見ていることしかできなかった。
恐ろしかったのだ。幼い妹を守らなくては、などというのは言い訳だ。ただただ目の前の出来事が恐ろしく、足がすくんで動くことができなかった。
エベラルドの腕の中で眠っていたアデライダが、目を覚まして泣き出した。
彼は必死でその口を押さえたが、近くにいた男が茂みを覗きこんだ。
男と目が合った瞬間、何故かエベラルドの恐怖は霧散した。
そいつは見たこともないような大男だったが、激しい怒りが彼を突き動かした。アデライダを茂みのなかに置くと、脚に力を入れて飛びかかる準備をした。
あいつの剣を奪って、この場の全員を殺してやる。そう決めたのだ。
だが、男はふいと茂みに背を向けた。子どもだから見逃してやろうということなのだろう。
危険が去ったことを知ると、再びエベラルドの心に怯懦が戻ってきた。彼はアデライダを抱えて、その場を離れた。
茂みを抜け、身を隠してくれるものがなくなると、牧草地を全速力で走って山を下った。樹木が生い茂る場所ではアデライダの手を引き、泣き喚く彼女を無理矢理歩かせた。
麓の村に辿り着くと、エベラルドは亡き実母の姉夫婦に助けを求めた。
彼女達はふたりを匿い、四歳の幼女を捜しに訪れた騎士も追い払ってくれた。
ほとぼりが冷めるまで半年ほど、アデライダを領主館から一歩も出さずに育てた。彼女だけが最後に残された希望だと、こっそり接触してきた集落の生き残りがエベラルドの手を握って泣いた。
アデライダの慰めに数頭だけ残して、夏の居場所を失った羊はすべて処分した。他所の羊飼いにもらわれていった羊もいるが、ほとんどが肉と羊毛になった。
エべラルドは長い木の枝を拾っては、あの夜に見た騎士の剣筋を思い出しながらなぞった。
大量の羊肉を売りに出た遠くの街で騎士になり損ねた元従騎士に出会い、教えを乞うた。時折彼に相手をしてもらい、村ではひとりで枝を振った。
夜は毎日小さなアデライダと布団に入るから、朝は早くに目が覚めて、剣の稽古に集中できた。
翌年、十三歳になったエベラルドは泣き叫ぶアデライダを振り切って王都に旅立った。
騎士団では苦労をしたが、過去を忘れて腹の底から笑うこともあった。
手を差し伸べてくれた大人もたくさんいた。友と呼べる存在もできた。
自身の成長に伴って、今度は自分が手助けしてやった少年に、兄のように慕われもしている。
「兄さん? まだ起きてるの?」
腕の中のアデライダが寝惚け眼を向けてくる。
「子どもと同じようには寝れないんだよ。気にしなくていいから寝てろよ」
ふうん、と口を尖らす少女は、昔と違ってずいぶん生意気になった。
「ねえ、兄さん」
「ん?」
「兄さんがライリーのことが好きで、そうして欲しいっていうなら、あたしライリーでも我慢してあげるよ」
「ひでえ上から目線だな。おまえ金髪でも乳がでかくもないだろ」
「髪はともかく、胸ならそのうち」
「いや、無理だな」
「ひどい」
「いいんだよ、俺のことは気にするな。もうあいつには会わなくていい。後で辛くなるのは嫌だろう」
エベラルドは昔のように丸い額にキスを落としてやって、小さな身体を抱き寄せた。
「あたしが気にしなきゃ、誰が兄さんの気持ちを気にしてくれるのよ」
「そんなことはどうでもいいんだよ。俺はおまえが幸せになるなら、それでいいから」
エべラルドが山小屋に泊まった五日後、彼の所属する隊は王都へ帰ることになった。入れ違いでやって来た別の隊の騎士に引き継ぎをしてから凱旋し、王宮の広場でささやかな式典が行われた。
その式で後方に立っていたライリーは、時折観覧席を見上げては眩しげな表情をしていた。
なんだいい女でもいたか、と揶揄う仲間に、そんなんじゃない、と不貞腐れている声が、前方のエベラルドの耳にも届いた。
二十二歳になったエベラルドは、前年通り帰省した。その頃には軍馬の代金は、羊二頭を含めて支払いを終えており、エベラルドの心にも余裕が生まれていた。
十四歳になったアデライダはまた少し成長していて、それでも変わらずエベラルドの寝台で眠りたがった。
王都で暮らすエベラルドは、聖人君子とは程遠い生活を送っている。
彼は眠りに就く直前、自分の手が無意識のうちに、少女の背中から腰にかけてのなめらかな肌の感触を楽しんでいることに気づいて愕然とした。
慌てて身体を離すと、アデライダは無防備な寝顔のままエべラルドの腹にしがみついてきた。
長い髪から垣間見えるうなじから、寝乱れた肌着の細い腰の曲線から、ほんのりと漂う未成熟の色香が彼を惑わせた。
眩暈がしそうだ。
エベラルドは翌朝、用事ができたと言って王都に帰って行った。
翌年、小隊長に昇格したエベラルドは、ライリーの結婚式に上官として出席した。
まさかあれは、アデライダの言っていた歳上の金髪美女か、と驚きの目で式の流れを見届けた。おまえがその女を取っていくのかと、笑い出したい気持ちにもなった。
その年の連続休暇は、宴席での失態のせいで五日しか取れなかった。
これ幸いと、ライリーの妻の金髪美女のせいで今年は帰れない、と手紙だけを送った。
次の年も理由をつけて、村へ顔を出すことはなかった。
そして約束の年、アデライダの結婚相手を見定めるために、エベラルドは三年振りに村を訪れた。
十七歳になった彼女は、綺麗な娘になっていた。
彼女は黒に近い褐色の髪を背に流し、金茶の瞳を涙で潤ませて、エベラルドを出迎えた。
「兄さん。なんで今まで帰って来てくれなかったの」
エベラルドは道中ほったらかした無精髭をアデライダの頭に乗せて、精一杯の優しさでその背を撫でてやった。
「悪かったな。忙しかったんだ」
「嘘つき」
「やっぱりおまえは賢いな」
「当たり前でしょ」
王都にいたエベラルドに、伯父から手紙が届いたのだ。
アデライダがどの男にもうんと言わない、あの子が傷つくような結果になる前に説得してやってくれ、と書いてあった。
「賢いアデライダなら分かるだろう。みんな、おまえが産む子を待ってる。それでもみんな、おまえのことが大事だからこの年まで待ってくれたし、好きな男を夫にしていいと言ってる」
「でもお父さん言ってたよ。エベラルドがいいならそれでもいい、そうしろって」
あの野郎、それが目的だったのか。エベラルドは手紙でのこのこと呼び出されて来た自分の迂闊さを呪った。
「俺は駄目なんだ。それじゃあ意味がない」
「そう言うと思った」
あっさりとそう返したアデライダを見返すと、彼女はエベラルドの知らない大人の女の顔をして笑った。
「分かってたよ。最後に兄さんの顔が見たかっただけ。夫なんて誰でもいいから、兄さんが選んでよ。そのひとの子どもを産めばいいんでしょ」
「……アデラ」
「安心してよ。あたしももう大人だから、ひとりで寝れるよ」
身を翻したアデライダは、エベラルドを残してひとりで歩き去った。
エベラルドはぼんやりとその背中を見送った。




