夜明けをあなたに 後編
「危ないだろう。家まで送る」
なんだこいつも女たらしか。騎士なんてやっぱりくだらない。嫌な奴ばっかりだ。
「何が危ないのよこんな田舎で。みいんな知り合いなのに」
あんたといるほうが危ない、と言外に含ませて、アデライダはそっぽを向いて再び家に向かって歩き出した。
少年は黙って、少し後ろをついて来る。
アデライダはしばらく無視して早足で歩いていたが、途中で我慢できなくなった。
「…………ちょっとやめてよ。そっちのほうが怖いよ」
「えっ、……あっそっか、そうだな、ごめん」
彼は自分が不審者のようだったことに気づいて、慌ててアデライダから距離を取った。
蝋燭は貴重だから、どこの家も夜は真っ暗になる。月が明るい夜は窓を開けて夜更かしするひともいるけれど、今夜の月は痩せ細っていて、なんとか足元を確認できる程度だ。
人の気配はどこにもなかった。
少年は律儀にアデライダから腕の長さの倍くらい離れて、右側を歩いた。そこまで離れたら、輪郭くらいしか見えなくなる。
なんだ。このひとはただのいいひとだ。
友達が妹の機嫌を損ねたから、代わりにその身の安全の確保に来てくれただけなのだ。
「変なひと。もう、普通に隣を歩いていいよ」
彼はほっとしたように近づいて来たが、少女が警戒心を抱かないだけの距離は保ってくれた。
「えっと。アデラ、でいいのかな」
「うん。そっちは?」
「ライリー。エベラルドと同じ小隊の従騎士だよ」
「従騎士?」
「騎士見習い、かな。まだ正式な騎士じゃないから馬も持ってないし、ほら、剣も下げてないだろ」
確かにライリーが腰に下げているのは、エベラルドが持つ長剣よりもずっと小さな短剣ひとつだけだ。
「ふうん」
去年、七年振りに帰ってきたエベラルドは、従騎士というやつだったということか。
「君のお兄さんは格好いいんだ。仕事はできるし男前だから、女の人がほっとかないだけだ。だから別にエベラルドがだらしないわけじゃない」
「そんなこと知ってる」
エベラルドが女にもてるのなんか、当たり前だ。世界一格好いいんだから、仕方のないことだ。
ただ、アデライダと会えない時間に、彼が自分に群らがる大人の女の人と仲良くしてたのだと思うと、どうしようもなく腹が立って、哀しくなって、泣きたくなるのだ。
「エベラルド落ち込んでた。あんな彼は初めて見たよ。妹に嫌われたくないんだ」
「……兄さんにあたしの機嫌を取るよう頼まれたの?」
「というより命令かな。騎士にライリー追え! って言われたら、はいっ! て言うしかない」
「そういうときは、嘘でも君が心配で、とか言うものじゃないの?」
「でも、アデラを心配してるのはエベラルドだから」
このひとは危険だ。
アデライダはやっと気づいた。
エベラルドが彼女に会わせたくなかったのは、軽薄男のほうじゃない。この無害な顔をして、ひとの心にするりと入り込んでくるライリーのほうだったのだ。
こんなひと、嫌うことなんてできない。
アデライダの大嫌いな騎士になろうとしている奴なのに。
「なんでよ。女の子が夜道を歩いてるんだから、自分でも心配しなさいよ」
悔し紛れに憎まれ口を叩くと、ライリーは困った顔になった。
「うーん。でも君の脚の速さに追いつける人なんてなかなかいないだろうし、ここは平和な村みたいだし」
それでも心配するのが男の役目というものではないのか。
「ライリーは自分の好きな子が相手でもそんなこと言うの?」
「えっ?」
彼はあっさりと慌て出した。なんて素直な少年だろうか。
ライリーはアデライダのことをなんとも思っていないから、危険はないと理性的に判断した。エベラルドはアデライダが大事だから、機嫌を損ねたら困るし、何もないと分かっている夜道を歩かせるのも心配なのだ。
うん。仕方がないから、機嫌を直してあげよう。
「それどんな子?」
ライリーはアデライダの追及にぎょっとした顔になった。
「子って感じのひとじゃない。ていうか、別に好きとかじゃ」
「大人のひとなんだ。だいぶ歳上? やっぱり男の人って、金髪の巨乳美女が好きなの?」
「そんなこと…………ってあれ? そうなのか?」
え、俺ってそうなの? とぶつぶつ言う様子からすると、ライリーの好きなひとは男の妄想を体現したような女の人らしい。
「……馬鹿みたい」
「ちょっと待て。別に金髪だからとかじゃないからな」
「あっそう。別にそれはどうでもいいよ。兄さんと付き合ってる女の人もそんな感じなの?」
「ええー……、知らないよそんなこと。いいじゃないか。彼がどんなひとと付き合ってたって、君の兄さんであることに変わりはないんだから」
「分かってるけど。嫌なものは嫌なの。そんなのきたない」
初対面の少女の面倒臭い思いをぶつけられて、心優しい少年もさすがに嫌気が差してきたようだ。
「そう。アデラはお兄さんが好きなんだ」
適当になだめるように言われて、アデラはライリーを睨みつけた。
「そうよ。悪い?」
「悪くない。俺も兄とはそれなりに仲がいいし」
「一緒にしないで。あたしと兄さんは血がつながってないんだから」
「え、……」
ふいに言葉を途切らせたライリーを見上げると、彼は隣のアデライダではなく、もっと前のほうを注視していた。
ぼんやりした顔が急に鋭くなって、怖くなったアデライダは彼から一歩離れた。
「だめだ! アデラ離れないで」
左手でアデラの腕を掴んで引き寄せると、ライリーはいつの間にか抜いていた短剣を右手に構えた。
「なに? なんなの?」
「ここは狼がよく出るのか?」
「おおかみ? 村までは降りて来ないよ。あいつらの縄張りは山の中だけ」
ライリーはアデライダを見下ろすと、思案顔になった。
「さすがに脚で勝つのは無理だよな。アデラ、そこの家に助けを求めて来て。俺はあれを片付けてくるから」
あれ?
ライリーが示した方向に目をやると、弱い月明かりに慣れた眼に、大きな獣の後ろ姿が映った。
「! うそ……!」
アデライダの知る限り、狼が村で家畜や人間を襲ったことなんてないはずだ。山の獲物だけで充分腹は満たせるから、人間なんて厄介な動物は狙わないのが普通だ。
狼は一頭だけ見えた。他にも近くでうろうろしている奴がいるのだろうか。
「はぐれならいいんだけど、群れなら厄介だな。家畜がやられる前に追い払わないと。だからアデラはそこの家で」
「駄目! 羊を守らなきゃ! あっちには兄さんとあたしの羊がいるの!」
アデライダはライリーの制止を無視して走り出した。
「えええー……」
羊は家の裏の柵の中で寝ている頃だ。狼は道から外れたところにいるから、静かに動けば襲われることはないはずだ。
普通、自然の獣は人間を避けるが、まだ小さいアデライダのことも恐れるかどうかは賭けでしかない。
全速力で家に向かうと、ライリーがすぐ後ろをついて来る。狼を追い払うのは後回しにして、アデライダを守ることを優先してくれたのだ。
「ありがとう」
素直に礼を言うと、諦めたような笑いが返ってきた。
「いいよ。羊を家の中に入れたら、他の家のひとにも知らせよう」
木造の領主館の裏手にある柵の中で、羊は八頭、全部無事だった。
安堵の息を吐いて、アデライダは裏口の扉に向かった。
そこに、狼が現れた。
尾けられたのか。やっぱり群れで来ていたのだ。四頭いる。これで全部だろうか。
下手に騒いで狼を刺激したら、短剣一本で四頭と相対しているライリーの邪魔になる。アデライダは武器になりそうな物はないかと、そっと周りを見回した。
「……ライリー、そこに薪割り用の斧ならあるよ」
少しでも長い武器のほうがいいのではないかと提案してみたが、ライリーは困ったように笑って首を振った。
「薪割りは苦手なんだ。短剣のほうがまだマシ」
それならば、とアデライダは素早く動いて、斧を自分の得物にすることにした。
「! ちょっ、君は中に……っ」
ライリーが途中で言葉を途切らせた。彼は飛び掛かってきた狼の頸に短剣を突き刺し、そのまま全身の力を使って、絶命寸前の狼をもう一頭にぶつけた。
アデライダが斧を振り上げることはなかった。
音もなく現れたエベラルドが剣を振るうと、山の強者はその鋭く尖った牙を見せつける機会も与えられず、音を立てて横倒しになった。
二頭の命を奪った後、彼は躊躇うことなくライリーにのしかかる狼の急所を斬りつけた。
たったそれだけの出来事だった。
アデライダはエベラルドの姿を見取めてからすべてが終わるまで、息をするのを忘れてしまった。ライリーが力を失った狼を押し退けるのを見て、やっと呼吸することを思い出した。
それでも息苦しさを感じなかった。それだけの時間しか経っていなかったのだ。
「アデラ。無事か」
ライリーの上で力無く倒れた狼の灰褐色の毛並みが、一瞬エベラルドの頭に見えた。
血塗れになって倒れるエベラルドの姿が、アデライダの脳裏にひどく鮮明な色を伴って浮かんできた。
ひゅっ、と喉の奥から変な音がした。
「おい、アデラ!」
エベラルドは妹の手から斧を取り上げると、その身体を小さい子にするように正面から抱き上げた。
「もう大丈夫だ。俺がついてる。怖いものなんかどこにもないぞ」
アデライダは全身で彼にしがみついて、何度も頷いた。
さっきのは幻だ。こっちの温かいエベラルドが本物だ。
「うん。大丈夫。ライリーが助けてくれた。羊も無事だよ」
「ようし、いい子だ。よく頑張ったな」
アデライダの頭と背中を優しくさすると、エベラルドは思い出したようにライリーを見た。
「おいおい、きったねえな。そこに井戸があるから、頭から全部洗ってこいよ」
「……はーい」
ライリーはアデライダとの扱いの落差に不満気な顔をしながらも、勢いをつけて立ち上がった。短剣一本で狼に立ち向かった彼も、怪我ひとつとして負っていないようだ。
「ライリー!」
アデライダは慌てて血塗れの少年を呼び止めた。
「ん?」
「ありがとう。助けてくれて。無茶言ってごめんなさい」
「うん。君も羊も無事でよかった。まあ助けてくれたのはエベラルドだけど」
エベラルドはふたりの様子を少し眺めてから、アデライダに指示を出した。
「アデラ。ライリーに井戸の場所を教えて、拭く物も貸してやってくれ。それから伯父さん達に狼の始末を頼んどけ」
「兄さんは?」
「今日はこのまま向こうに戻る。ライリー、俺はザックを呼んで来るから、急いで血臭だけ落としとけよ」
「分かってます。今夜来ると思いますか?」
「いや。これだけ足元が見えない夜にそれはないだろう。早くても夜明け前だ。最終判断は上がするから、とにかく急げ」
「了解です」
アデライダは、ライリーの先に立って歩を進めた。
「アデラ。水の場所だけ教えたら、そいつのことは放っとけよ。乾布はそのへんに引っ掛けといて、自分で勝手に取らせろ」
「……なんの心配よ。兄さんとおんなじようにはしないよ」
「分かってんならいい。ほら、急げよ」
兄妹のやりとりをきょとんとして見ていたライリーは、足早に進むアデライダの後を慌ててついて来た。
そんな彼をちらっと見上げると、狼の血でべとべとになった頬を顔をしかめて拭っている。さっきまでの緊張感は嘘みたいになくなって、また元のようにぼんやりした空気の少年に戻っている。
「ねえ、さっき兄さんとなんの話をしてたの?」
「ああ、えっと……言ったらエベラルドに怒られないかな」
「あたしが訊いたんだって言ってあげるから」
「……まあ君も知っておいたほうがいいか。普段は現れないはずの狼の群れが村に出たってことは、多分縄張りを侵されたんだろう。その縄張りを荒らしてるのは、敵国の軍隊なんじゃないかって話。もちろんただの推測だけど、情勢的に可能性は高いと思うんだ。俺達はそれを報告しに帰らなきゃならない」
「いくさになるの?」
「多分。でも大丈夫、この村にまで軍勢が押し寄せることはないから。砦からは距離があるし、エベラルド達は強いから負けたりしない」
「ライリーも行くの? 危なくない?」
つい今しがた危ない目に遭ったばかりのライリーにするには、おかしい質問のような気もした。
それでも、まだ子どもの顔をした彼が、当たり前のように大人に混ざって戦場に向かおうとしているのが信じられなかった。
エべラルドもこんな少年の頃から、戦場で命の遣り取りをしてきたのだろうか。そして今日もこれから、その命を懸けてくるのだろうか。
「俺はこれが初陣になるのかな。従騎士が前線に出ることはないから、危険は少ないと思う。エベラルドのことも心配しなくていい。そんなに大きな戦場にはならないから」
泣きそうなアデライダを置いて、ライリーを迎えに来たエベラルドはまた村から去って行った。
アデライダはその夜、一睡もせずに夜明けを待った。
こんな不安な夜には、いつも思い出してしまうのだ。
幼いアデライダは、エベラルドに手を引かれて月明かりだけを頼りに山を下っていた。もう歩けないと泣いても彼は立ち止まってくれなかった。彼女が顔からこけて立ち上がれなくなると、舌打ちと共に抱き上げて、彼はそのまま休むことなく歩き続けた。
太陽の頭が見え始めた頃に辿り着いたのがマルコス村だ。
歩き出す前のことはもう忘れてしまった。
四歳だったアデライダは、その夜にエベラルド以外のすべてを失ったらしい。彼女はそれ以来、兄だけを頼りに生きてきた。
今は母と呼び慕う女性にもなかなか懐かず、兄の腕の中でしか眠ろうとしなかった。
だが、アデライダの世界のすべてだったエベラルドは、その夜から一年後に、騎士になると言って旅立ってしまったのだ。
世界を失くした絶望感のなか彼女は少しずつ大きくなり、七年経ってようやく世界を取り戻した。
今夜また、アデライダはエベラルドを失ってしまうかもしれないという不安と闘っている。
騎士が行かずに誰が行くんだよ、と彼は言っていたけれど、そんなの誰が行ってもいいじゃないかと思う。エベラルド以外の誰かが行けばいい。
だってエベラルドはまだ、あの夜に囚われた少年のままなのだ。
アデライダが忘れてしまった夜に失ったものを取り戻すため、彼はずっと真っ暗な夜のなかを彷徨い続けている。
もうすぐ夜が明けるけれど、エベラルドに朝は来ない。
兄さん。
エベラルド。
アデライダの大事な世界のすべて。
夜明けをあなたにも見せてあげたい。
そのためだったらアデライダは、どれだけ嫌なことでも我慢しようと決めているのだ。
だからお願い、エベラルド。大好きな兄さん。
いつだってここに、アデライダのところに帰ってきて。




