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世界史講義録 ロシア史への誘い  作者: 鸛
ロシア史基礎編
51/75

閑話 ユーゴスラヴィアは何故コミンフォルムから除名されたのか?

前回、ソ連がコミンフォルムという組織を結成したことをお話ししました。


ところが、コミンフォルムの本部はユーゴスラヴィアにあったのに、ユーゴスラヴィアはコミンフォルムから除名されます。


それは、何故でしょうか?


東欧史をやるなら、話したいことのひとつですね。


それでは、解説します。


まず、話したいこととして、ユーゴスラヴィアという国は東欧の中でも特殊な国です。


第二次世界大戦が起きると、ソ連はどさくさに紛れてファシズム打倒を掲げながら、東欧侵略を拡大します。


ちなみに、スターリン自身は世界地図を飾っていてソ連の領土が拡大していくことをみて喜んだとも伝えられています。


しかし、ユーゴスラヴィアのみは、独自のパルチザン活動を行い、ナチス=ドイツを撃退しました。


この時のリーダーが、ティトーという人物でした。


ティトーは、対ドイツ戦で勝利したからこそ、国民から圧倒的な支持を得ます。そして、戦後、ユーゴスラヴィア連邦共和国の大統領に就任します。


そんなティトーだからこそ、「スターリン崇拝」に反対します。ドイツに自力で勝ったんだから、ソ連に偉そうなことを言われる筋合いはないということなのでしょう。


このティトーの方針こそが、ソ連との対立を生んで、コミンフォルム除名につながるのです。


ソ連は、ユーゴスラヴィアを取り込むことができなかったのです。


※なお、こういった姿勢もまた国民の支持を獲得するきっかけとなりましたね。


以上がタイトルの答えです。


最後に、ティトーについて補足します。


ティトーは、ユーゴスラヴィアという国を語る上でカリスマ性をもった指導者でした。


ティトーはソ連の失敗を反面教師にして、独自の共産主義路線を進めます。


この共産主義路線こそ、多民族国家であったユーゴの人民を纏めるきっかけになります。


ところが、ティトーは1980年になると死亡します。その後、ソ連も共産主義路線をやめてしまいます。


こうして、多民族の共通の目標である共産主義という理念が瓦解するのです。


その結果、民族間の対立は表面化し、1991年からユーゴスラヴィア内戦が勃発するのでした。

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