30話 3日目前編 ボク、びんかんになったよ。体のあらゆる部分で感じるようになったんだ。
3日目の朝、僕はいつも通りの時間に目を覚ました。
山の空気が良いせいなのかすこぶる快調だ。
耳を澄ますと、加奈子ちゃんの寝息が聞こえてくる。
まだ夢の中なのだろう。
隣のベッドで眠る加奈子ちゃんをなんとなく見つめる。
普段は凛々しい加奈子ちゃんも寝顔は可愛い女の子そのものだ。
いけない、いくら幼馴染みでも異性の寝顔を見るのはノーマナーな行為だ。
加奈子ちゃんごめんね。心の中で謝罪してベッドを出る。
さて、朝食の時間まで余裕もあることだし、露天風呂に入ってこようかな。
今日で旅行も最終日、この機会を逃すと温泉に行くことは当分ないだろう。
僕は加奈子ちゃんを起こさぬよう荷物を持ってそっと部屋を出た。
自室のものとは格段に寝心地が違う豪奢なベッドで俺、弘人は目覚めた。
普段の硬いマットレスから解放されたおかげか、異様な程体が軽い。
今日でこの快適なベッドともお別れというわけか……
将来働いて収入を得られるようになったら、良いベッドを必ず買おう。
そう決意して起き上がる。
最高のコンディションに体を動かしたくなってきた俺はジョギングをするためペンションを出た。
外に出ると山の澄みきった空気が肺の中の古い空気と交換されて、筋肉が早く動きたそうに興奮に蠕動しているのが分かる。
ハイオクのガソリンを満タンで突っ込まれた高級外車のような気分だ。
美しい緑の景色と空を肴に俺はクロスカントリーと洒落こむことにする。
道路はほとんどが舗装されているが、たまに土がむき出しの部分があって踵から伝わる不規則な振動が気持ちいい。オフロードを走るのもなかなか乙なものだ。
別にマゾってわけじゃないが、人生を楽しむコツってのは適度な負荷にあるのだと、こんな些細なことから悟った気分になる。
負荷か、俺は最近色々と負荷という名の試練を課してくる、幼馴染みの少年、いや少女のことを考える。
千秋が女になってからそろそろ1ヶ月。
たったそれだけの期間で千秋は見違えるように女らしくなった。
本人は女の子の真似をするのでいっぱいいっぱいの毎日らしいのだが、拙くも必死な姿は俺の胸を打った。
俺は千秋のひたむきな姿勢に、『異性』としての魅力を感じてしまったのだ。
これは非常に由々しき問題である。
俺は他の男と何ら変わらぬ普通に可愛い女の子が好きな男だ。
幼馴染みの少年を恋愛対象として見たことなど一度もないと断言できる。
……いや、嘘をついてしまったな。
小学1年のとき白雪姫を演じた千秋に胸の動悸を覚えたことがある。
その時の姿がクラスの女子の誰よりも美しかったからだ。
彼に女の子としての魅力を感じたのであって俺は断じてホモではない。
しかし、ここで1つの障害にぶち当たる。
俺は見た目が美しい少女なら男でも愛せてしまうのかということだ。
一昨日ペンションの掃除をしたとき、事故で千秋とお互いの体がもつれあったことを思い出す。
今まで、きわどい事故は何度もあったが、あの時は違った。
千秋の体重を、柔らかさを、甘い吐息を体のあらゆる部分で感じた俺の肉体はしっかりと欲情した。
誰が見ても美しい少女の体なのだ。
男だと分かっていても体の反応は止められなかった。
ならば心はどうなのか?
可憐な少女の中から千秋の言葉、表情、本人も気づいていない仕草を発見する度に俺の胸は不覚にも高鳴っていた。
花が咲いたような無防備な笑顔、泣きはらして落ち込んでいるのを励ましてやった時に見せた、はにかんだ顔が、かつての少年の顔に重なった時、心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。
少女が千秋の言葉を操って友情を、好意を、示すと息が苦しくなった。
俺は内面が男でも愛せるということなのか?
いいや違う。そこまで節操無しではない。
これまで俺に告白してきた女の子は多かった。
だが、その全てを俺は断ってきた。
女の子の中には顔で選んだなんて見も蓋もない子もいたが、真剣な子もそれなりにいた。
もちろんタイプだと思った子もいたが結局は丁重にお断りした。
友情を優先したかった。
恋愛感情以上に千秋の人間性に惚れていたからだ。
しかし、現金なものでいざ千秋が美しい少女になると惹かれてしまっている自分がいた。
千秋に少女の姿はあまりに相性が良すぎたのだ。
ここまで思考して気づいた。俺はいつの間にか千秋のことが好きになっていたんだ。
1人の女の子として。
同時にもうひとつ気づいてしまった。
俺はこれからこの気持ちを永遠に封印して生きていかなければならないことに。
千秋は今日まで男の告白を全て断ってきた。
俺が優良と思える物件すらにべもなく一蹴している。
千秋は女としての振る舞いは上手になったが、恋愛まで擬態するつもりはないのだ。
俺が想いの丈を告げれば千秋は間違いなく俺を軽蔑するだろう。
少なくとも千秋は俺にとって変わらぬ男同士の親友でいてほしいはずなのだ。
俺も親友として千秋の気持ちを尊重したいし、裏切るつもりなどない。
俺は千秋との心の距離を縮めようとすればするほど友情を大切にして恋愛感情から距離をとらなければなならないのだ。
反発しあう磁石のS極とN極のように。
……そうか、たった今俺は初恋をして、自覚した瞬間失恋したのか。
快調だった体はいつの間にか冷えきって鉛のように重くなっていた。
汗がびっしょりと滲んでいる。
時間を確認すると30分ほど経過していた。
30分悩んで得た結論が失恋だったとはな……
だが、千秋が女になってわずか1ヶ月で芽生えた思いだ。
10年以上育んできたあいつとの友情に勝るものか。
こうしてらしくなく悶々としてしまうのも、汗を流せばすっきりするだろう。
ペンションに戻って露天風呂にでも浸かれば忘れられるはずだ。
いつか時間が解決してくれるであろうことを信じて。
手近な脱衣カゴにさっさと服を放り込んで、裸になると体を洗うべくシャワーの方に向かう。
軽く汗を流し、湯船に向かう。
朝霧と湯気でよく見えないが先客がいるようだ。
ここが男湯であるのは間違いないから、先客は千秋のじいさんで間違いないだろう。
お世話になっている身なので挨拶するべきだ。
「おはようございます。」
人影は俺の声に気づいて近寄ってくる。
「あ、ヒロトだ。おはよー♪」
返ってきた返事は老人とも思えない鈴を転がしたような可愛らしい声だった。
お湯の中を中腰の姿勢で歩いてきたのは当然のことながら千秋だ。
こういうことは以前にもあった。
トイレに行った時、中までそのままついてきたのが当てはまるな。
「千秋。ここは男湯なんだが。」
「うん、ちゃんと男湯なの確認したよ?」
「お前は今女だよな?」
「えっとそうだね。」
「じゃあ、男湯にいるのはおかしいよな?」
「そうだね。……あ!えへへ、間違えちゃった?」
「ああ、千秋は間違っているな。だが、誰だって間違えることはあるだろう。次に生かせばいい。」
「うん。だけど一般のお客さんいないわけだし、問題なくない?もし女湯にいて加奈子ちゃん入ってきたら僕が落ち着かないし。今日ぐらい一緒に入ろうよ?」
「サービスエリアで男子トイレが空いてるから入ってくるおばちゃんみたいな理屈を持ち出されてもな」
「そっか、言われてみればそうだよね。あれって実害が無くても何か落ち着かないよね。」
「だろう?」
「……」
「……」
次の言葉が見つからなくて千秋との間に気まずい沈黙が流れる。
すると何かに気がついたのか千秋が口を開いた。
「えっと……ヒロトのおっきいね。」
ようやく絞り出した千秋の言葉は今の会話の文脈から想像もつかない異次元だった。
俺は時々千秋の考えていることがさっぱりわからない。
千秋の視線が俺の股間に向けられている。
そうだった。俺1人か千秋の祖父しかいないと思っていたからタオルなんぞ持ってきていなかった。
故に何の言い訳のしようもないほどに丸出しだった。
先程の千秋の言葉を去年の修学旅行の時に聞いても俺は、
「まあな」と軽く流すだけだっただろう。
だが今は違う、それが美少女の口から出てきた言葉なら破壊力は歴然の差だ。
俺は反応しようとする体の一部を千秋に気取られぬよう、素早く乳白色の湯船にしゃがんだ。
「見苦しいものを見せてしまってすまなかった。」
隠せたことに安堵するのと同時に後悔した。
脇目も振らずに立ち去っていれば解決した問題が、この場に留まることを選択した時点で先伸ばしになったからだ。
この場を離脱するため、俺の心の平静を保つため、ここは会話でイニシアチブをとるべきだろう。
「俺より千秋は平気なのか?幼馴染とはいえ男の前で裸はつらいだろう。」
「ちょっと恥ずかしいけどお湯が濁ってて見えないから大丈夫だよ。」
ついこないだ、すりガラス越しとはいえ裸を俺に見られて恥ずかしそうだったのだが、心境の変化でもあったのだろうか?
二日間加奈子と風呂に入っていたようだし、度胸がついたのかもしれん。
俺と千秋は小中両方で何度か一緒に風呂に入ったしな。
千秋の母親風に言うのなら耐性スキルがついたのだ。
恐らく。
「ね、ヒロト。こうしてると修学旅行を思い出すよね。」
千秋がお湯を手のひらで弄びながらぽつんと言った。
「そうだな」
「楽しかったよね。もう一緒にお風呂に入れなくなるかと思うと残念だよ。」
「俺もそう思うが、人間立場に沿った生き方を外れるのは簡単なことじゃないからな。」
「立場かあ、じゃあもし僕が本物の女の子で、ヒロトのお嫁さんだったら、一緒にお風呂に入ってもいいのかな?」
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!?
千秋が―――――――――俺の―――――――お嫁さん?
いやいやいやいやいやいや
「馬鹿!それは飛躍しすぎだろう!風呂の前に俺との結婚生活には色々段取りがあるに決まってるだろうが!!」
「ヒロトと僕の結婚生活……?」
この時の千秋の百面相は見物だった。
きょとんとした表情で首をひねり、考え込む仕草をしたかと思えば、次は口を半開きにしてぽーっとした顔に変化する。
それが終わると頬に朱が差しはじめた。やがて首まで真っ赤に染まる。
「ごめん!僕のぼせちゃったみたい!先にあがってるね!」
千秋は湯船の傍に置いてあったタオルをひったくると、体を隠して走り去っていった。
あの瞬間、千秋の顔はまるで恋に恋する少女のものだった。
俺が千秋と知り合ってから初めて見た顔だ。
それが嘘でなかったことを証明するように俺の心臓はバクバクと早鐘を打っている。
失恋して諦めた矢先だというのに今後どの面下げて千秋に顔を合わせればいいんだろうな……
千秋が脱衣場を出ていったのを確認した俺は平静を装って風呂場の暖簾をくぐる。
が、俺が部屋に戻るのを弁慶のごとく通せんぼする存在がそこに立っていた。
「ねえ、さっき千秋が私に顔も見せられないほどの勢いで男湯から出ていったんだけど、何があったのか教えてくれない?
まあ、しゃべっても殺すし、しゃべらなくても殺すんだけど。」
選択の余地はない、これは俺の心の中に秘めておくべきことだ。
俺は迷わずしゃべらずに殺される方を選んで、さあやれと腕を大の字に広げた。
俺の反意を汲んだ加奈子が万力のような力でアイアンクローを頭蓋にめり込ませてくる。
加奈子のせめてもの情けか、激痛に俺の意識が途絶するまで長い時間はかからなかった。




