海の魔獣との遭遇
リリアーナたちは船に乗った。
出港を前にして、セラフィーネは持っていた魔石を殆ど食料品に替えた。
港の商人たちは魔石に目を輝かせ、すぐに大量の保存食や果実、干し肉を積み上げていく。
こうして手に入れた食料は、次々と船に運び込まれた。
樽や木箱が甲板の端まで積まれ、船はしばしば軋む音を立てた。
航海に備えるその光景を、リリアーナは少し緊張した面持ちで見つめていた。
船は出港した。乗船早々にラディンは船酔いを起こしてしまう。青ざめた顔で甲板に座り込みながらも、必死に平然を装っていた。
一方その横で、リリアーナはセラフィーネから魔力の扱いを学んでいた。
セラフィーネが掌の上に小さな透明の玉を浮かべる。
「リリアーナ、これに魔力を込めてみて」
「はい」
リリアーナは両手で玉を包み込むように持ち、静かに魔力を流し込んだ。
すると、玉はみるみるうちに銀色と虹色の光で満たされていく。
「……止めて」
セラフィーネの声がかかる。リリアーナはすぐに魔力の流れを止めた。
それでも彼女の表情には、まだ余裕があった。
「ずいぶん上達したのね」
褒められたリリアーナは、心の底から嬉しそうに微笑んだ。
セラフィーネは小さな袋をリリアーナに渡した。中には、銀色の玉が幾つか入っていた。
「リリアーナ、あなたの魔力のよ……。渡しておくわ。常に持っていてくれる?」
「はい」リリアーナは素直に受け取った。
「では、今度は“歌”を覚えてもらおうかしら?」
そう言ってセラフィーネは歌い始めた。
それはこれまで聞いた“語り”とは違い、どこか不思議で、海の風に溶けていくような旋律だった。
「……語り、ではないのですか?」
「さあ? ――ほら、真似して歌ってみて。魔力をできる限り込めるのよ」
セラフィーネの促しに、リリアーナは何度も何度も歌を繰り返した。
セラフィーネの厳しい指摘が続き、船上では彼女の修練の声が絶えなかった。
そして数日後――。
リリアーナは、自分の中に何か変化を感じた。
今まで出せなかった響きが喉の奥から自然に生まれ、海風とともに広がっていく。
魔力を乗せて歌うと、海の水面が突然盛り上がった。
「……っ!?」
ぐったりしていたラディンが、即座に警戒態勢に入る。
「何だ……?」
「海の魔獣よ。ラディン、動ける?」
「何とか……!」
まだ船に慣れきっていないラディンは、揺れる甲板の上で弓を構えたが、狙いが定まらない。
その間にも、巨大な影が波間から現れ、船へと迫ってくる。
「リリアーナ、弓を借りるわね」
セラフィーネはリリアーナの弓を取り、魔力を込めて矢を放った。
矢は一直線に飛び、魔獣の片目を正確に射抜く。
おぞましい咆哮が響き、海の魔獣は苦痛に身をよじらせながら、深い海の底へと沈んでいった。
甲板に静寂が戻る。
波の音だけが、再び穏やかに響いていた――。
「あの歌は……?」
リリアーナは震える声で尋ねた。
海の魔獣など見たのは初めてだった。胸の奥で激しく脈打つ心臓を、両手で押さえるようにして落ち着けようとする。
セラフィーネは風に揺れる髪をかき上げながら、穏やかな声で答えた。
「精霊や魔獣に届く声……と言うべきかしら。
私の国ではね、歌に想いを込めると精霊に届きやすくなるの」
リリアーナは息を呑んだ。自分の歌が、無意識のうちに何かを呼び寄せてしまったのだ。
「今、出てきたのは……?」
ラディンが険しい表情で問いかける。
「今のは、リリアーナの“声”に惹かれて来ただけよ。呼んだわけではないわ。……気になって様子を見に来たのでしょう」
セラフィーネは淡々と言いながら、再び海を見つめた。
波間には、すでに魔獣の姿はない。だが、海はどこか重く沈んで見えた。
「海には……あんなのがいるのか……」
ラディンが低く呟く。
セラフィーネは肩をすくめ、軽く笑った。
「まだ“小さい方”よ?」
その一言に、リリアーナとラディンの顔から血の気が引いていく。
二人は顔を見合わせ、青ざめたまま、再び揺れる船の上に立ち尽くしていた――。
「どうして、この歌を……?」
リリアーナは恐る恐る尋ねた。
海の静けさが戻ったとはいえ、胸の鼓動はまだ落ち着かない。
セラフィーネはゆっくりと視線を海の彼方へ向けた。
「私の国で――リリアーナ、あなたに歌ってほしいのよ」
「……わたしが?」
「ええ。消えてしまった精霊たちに、もう一度姿を見せてほしい。その想いを、あなたの歌に込めてほしいの」
リリアーナは言葉を失った。
自分の歌が、誰かの願いを背負うものになるとは思ってもみなかった。
セラフィーネは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「私はね、精霊の愛し子ではないから……
どれだけ魔力をのせて歌っても、精霊たちには届かないの」
風が二人の間を通り抜け、セラフィーネの長い髪を揺らした。
その瞳は、遠い故郷と、そこにもういない精霊たちを見つめているようだった。
シルヴァルナの島影が、水平線の向こうに見え始めていた。
セラフィーネは静かにリリアーナの方を向いた。
「島にも、愛し子はいるのよ」
「愛し子が……?」
「ええ。でも――精霊たちは、姿を見せなくなってしまったの。本当は、その理由を知りたいのだけれど……」
リリアーナは胸の奥がざわめいた。
自分がこれから向かう島に、何が待っているのか。
そして自分に、本当に何かできるのか――。
「私に……できるの?」
その声には、不安が滲んでいた。
セラフィーネは少しの間、黙ってリリアーナを見つめた。
そして、微かに震える声で言った。
「……さぁ? でも、私はね……リリアーナなら、きっとできると思うの」
その言葉には、希望と祈りと、そして哀しみが混ざっていた。




