一年前の約束
リリアーナは、エドモンドと過ごした日々から一歩離れ、現実に戻ってきた。
……夢のような時間。
けれど、ふと振り返ると――あれは本当に現実だったのだろうか?
そんなふうに思ってしまうほど、甘く、温かい日々だった。
体力も徐々に戻り始め、動けるようになったはずなのに――。
彼女はベッドに潜り込み、シーツを頭からすっぽり被ってしまった。
「……ど、どうしよう……」
心臓がばくばく鳴って止まらない。
脳裏に浮かぶのは、あの夜の光景。
自分から、抱きついてしまったこと。
「わ、私……わたしから……!」
枕をぎゅっと抱きしめ、シーツの中でころころ転がる。
「あわ、あわあわ……!」
思い出すたびに顔が熱くなり、胸がいっぱいになる。
慌てふためくリリアーナの姿は……誰にも見せられない、秘密のものだった。
リリアーナたちが領地に来てから、まもなく一年が経とうとしていたが、いくつかの変化があった。
まず、領主であるエドモンドに余裕が生まれた。一年を通して領主の務めを経験し、季節ごとの流れや業務を一通り把握できるようになった。魔獣や魔鳥への対処も、初めて指揮を執った当初は不安があったものの、今では「何とかなる」と思えるようになった。
ある日の朝。
「エドモンド様、一緒に薬草を採りに行きませんか?」
リリアーナが恥ずかしそうに声をかけると、彼はわずかに目を細めて笑った。
「もちろんだ。危ない場所は俺が先に行こう」
そのやりとりに、以前にはなかった自然さがあった。
夕食後、広間にリュートの音色が響くのもすっかり習慣になっていた。
「リリアーナ、その歌は初めてね」
マルグリットが、うっとりと言う。オルフェウスも、エドモンドも静かに聞き入った。
リリアーナとエドモンドが、二人きりで過ごす夜もあった。
その時のリリアーナは、彼のためだけに歌を紡ぐ。
愛しさを込めたその声は柔らかく、そして誇らしげで――眩いほどに美しかった。
変わったことは、もうひとつあった。
それは――リリアーナが歌を口ずさむ時、必ずと言っていいほど「お雪様」が現れるようになったことだ。
最初の頃は、オルフェウスもマルグリットも「珍しいことだ」と目を見張った。けれど幾度となくその光景に出会ううちに、やがて彼らも自然と受け入れるようになった。
リリアーナの歌声に導かれ、白い影のようにすっと姿を現すお雪様。
その佇まいは、日常に寄り添いながらも、どこか人ならざる世界の気配を漂わせていた。
やがてリリアーナは、結婚できる年齢を迎えようとしていた。
マルグリットと共に過ごす時間も自然と増えてゆく。
「領主夫人には、忍耐も、そして気遣いも必要ですわ」
マルグリットは紅茶を口に運びながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「はい。覚えておきます」
リリアーナは真剣な眼差しで頷いた。
この日のお茶は、リリアーナが調合した薬草茶だった。
「今日は根を煎じてみました。少し香ばしいかもしれません」
「まあ……思ったより飲みやすいですわね」
マルグリットは柔らかく笑った。理想のお茶とは少し違うものの、その気持ちが伝わっていた。
オルフェウスは、ふうと一息ついた。
かつてのように自ら戦うことはもうできない。息子を信じてはいるものの、不安は常に胸の奥底に影のように付きまとっていた。
だが今、マルグリットの笑顔、エドモンドの落ち着いた横顔、そしてリリアーナの無邪気な笑みを目にして――肩に背負っていた重荷がすっと下ろされたような気がした。
寂しさはある。かつて剣を振るい前線に立った日々には戻れない。
それでも、胸の内に広がっていくのは確かな安らぎであり、幸福だった。
そんな日々が過ぎていった。
「リリアーナが十五歳になったら、結婚する約束だったよね。……いつにしようか」
エドモンドの問いかけに、リリアーナは頬を赤らめ、少し俯きながら答えた。
「……いつでも。心の準備は、もうできています」
その言葉に、エドモンドの胸は熱くなる。
彼の脳裏には、白いドレスに身を包んだリリアーナの姿が浮かんだ。
自らの腕で彼女をエスコートし、皆の前で幸せを誓う未来が。
そっとリリアーナを抱きしめながら、エドモンドは思う。
――発表を急がなくては。
彼女との幸せな未来を、一刻も早く形にするために。
二人にとって、この一年は決して平穏なものではなかった。
困難と不安に向き合い、時に心を揺さぶられる試練の連続だった。
けれど、それらを共に乗り越えた今、エドモンドとリリアーナの絆は以前にも増して強く結ばれている。
その先に待つのは、きっと――幸福に満ちた未来。
そう信じさせてくれるほどに、二人の姿は眩しく、頼もしく映っていた。
第二章終わりです。ここまで話を読んで下さった方、本当に有難うございます。
感想も全て読んでおります。どんな意見でも、勉強になってます。ただ、返信の言葉が悩んだ末に書けてません。申し訳ございません。




