マルグリットの苦悩
「じゃあ、ラニアとラディンは…」
リリアーナの言葉を続けるようにオルフェウスは言った。
「まだ、泉の中だ」
「そうなの、ですね」
あの場所は、リリアーナにとってもどうすれば良いのかわからない場所だ。でも、このままでは良くない。リリアーナは、微かに震える手を握りしめた。
そんな場面に対して、マルグリットは、アグネッタを前に緊張していた。王妃から事前に「王城で調合師として十分な働きをした女性」だと聞かされていたからだ。そんな凄い方が、この領地に来られるなんて……と、胸がざわつく。
実際に一目見た瞬間、アグネッタが平民ではないことはすぐにわかった。自分より年上で、落ち着いた気品がある。そして何より、リリアーナと親しい関係に見える。
どのように応対すべきか――マルグリットの頭の中は忙しく回転していた。
何故なら、王妃から直々に頼まれたことなど、マルグリットには初めての経験だったからだ。知らせがあってから、マグリットは粗相があってはならない、部屋の準備はどうするべきか、食事は少し上等なものにしたほうがいいのか――。考えれば考えるほど頭が痛くなる日々を過ごしていた。
そんな彼女の悩みをよそに、オルフェウスは気軽な声で言った。
「リリアーナの調合の師匠なんだろう? 普段通りで良いんじゃないか?」
その言葉に、マルグリットは思わず腹が立った。
リリアーナに甘甘草の増産、ほかの者が魔力を注いでも同じように成長するかの実験、エドモンドとの結婚式の準備……山ほど仕事がある。なのにオルフェウスは、まるで全部自分には関係ないと言わんばかりの態度を取るのだ。
しかし、いくら腹を立てても仕方ない。オルフェウスの言葉を飲み込み、マルグリットは静かに答えた。
「……わかりました。そのように致しますね」
……しかし、この時マルグリットの中には、言葉にするのには難しい何かが、燃え上がった。
マルグリットは、公爵夫人との打合せ通りに、城の庭とは別に甘甘草を植えるための新しい区画を作り始めた。オルフェウス用、リリアーナ用、魔力を扱える兵士用――それぞれが何処を担当するのか分かる様に区切りを設けていく。
当然、エドモンドの担当区画も作った。
雪が溶けたら、甘甘草を株分けして各区画に植え、それぞれが自身の魔力を注いで育てていくことになる。魔力量の違い、魔力の質の違いで、どんな差が生まれるのか――。
……結果が楽しみだわ。
マルグリットは耕されていく土地を見ては、口元を緩めていた。
挨拶が終わり、リリアーナが何気なく城の外を眺めたとき、広い一帯の土地が新しく耕されているのが目に入った。
「……あれは、何かを植えるのですか?」
気になって、隣のエドモンドに尋ねる。
エドモンドは苦笑しながら答えた。
「甘甘草を育てる場所だって。リリアーナと、他の者が育てた時の違いを調べるらしいよ」
……えっと、庭だけでももういっぱいいっぱいなんですが。あそこ、すっごく広い面積に見えますが?私の担当範囲って、どこまでなの……?
マルグリットとまだ何ひとつ話していないというのに、リリアーナにはこれからの毎日が――忙しくなる未来が――もう想像できてしまったのだった。……王城より、もしかして大変?まさか、ね……。
全く気がつかないエドモンドは、耕された広い土地を見ながら、隣のリリアーナに優しく言った。
「俺の区画も用意されてるらしいから、一緒に頑張ろうな」
……エドモンド様は、あの広い場所の “一部分” だけでしょ?きっと庭は、私がまた全部お世話するのよ。けっこう、大変なんだけど……?
リリアーナは心の中でちょっぴり苦々しく思いながらも、エドモンドと一緒に作業ができることが素直に嬉しかった。
「はい。楽しみですね」
そう微笑んで答えると、エドモンドも安心したように頷いた。
そんな二人を、アグネッタはさりげなく観察していた。
(マルグリットは、なかなか遣り手かもしれないわね。リリアーナのあの嬉しそうな顔……見ているこちらまで和らぐじゃない。
それに婚約者のエドモンド、思ったより悪くない男ね……)
アグネッタは、小姑のような鋭い目つきでエドモンドを値踏みしながら、静かに満足げに息をついたのだった。
こうしてリリアーナは無事に北の領地へ戻った。
しかし翌日――その幸せ気分は、一瞬で吹き飛ぶことになる。
結婚式のドレスの試着。そこで、事件は起きた。
「……入りません」
リリアーナの、か細く泣きそうな声。
試着室の中で、布が苦しげに引っ張られている。
マルグリットの目は、それはもう見事に吊り上がっていた。
ここまで上がるのか、と周囲が思う程度に。
「……リリアーナ。この冬だけで、太り過ぎなのでは?」
低く、凍りつくような声音。
リリアーナは縮こまって俯くしかなかった。
「……」
返事すら返せない。
マルグリットは静かに頷き、そして宣告を下した。
「――しばらく、おやつは抜きです。食事は特別管理コース。運動も毎日やってもらいますからね」
その口調は、もし存在するのだとしたら、北の地を震わせる“恐怖の大王”そのものだった。
リリアーナは青ざめ、エドモンドはそっと目をそらし、アグネッタだけが小さく肩を震わせていた。
……笑いを堪えて。




