王都を出たリリアーナ
春になり、リリアーナはついに王城を出立した。
王妃が特別に手配したゆったりとした馬車に揺られながら、リリアーナは向かいに座る人物を見て、意を決して声を上げた。
「……どうして、師匠が一緒なのですか?」
対面に座っていたのはアグネッタだった。
相変わらず落ち着いた態度で、ゆったりと外を見ていた。
「男爵領にいたら、名前を聞きつけて患者が押し寄せるかもしれないでしょう? 私には休息が必要なのよ」
アグネッタはさらりと言った。
リリアーナは思わず聞き返した。
「えっと……話し方はそのまま、ですか?」
「そうね。領主にお世話になる予定ですもの。失礼のないように、このままでいきましょう」
——え?
——ということは、城に滞在するつもり……なんですか?そんな話、何も聞いてませんけど……。
リリアーナは心の中で混乱していた。リリアーナは出立直前になって、アグネッタが一緒に北の領地に行くと知らされたのだ。
それは、アグネッタの休息という名目で。
実際のところは、まったく別の理由だった。
アグネッタの同行は、王妃と公爵夫人が彼女に依頼したためである。
――リリアーナの育てた甘甘草の栽培方法、そして魔力の与え方を観察してほしい。
――できれば、増産する方法を考案してほしい。
王妃も公爵夫人も、リリアーナの魔力を注ぐという行為には深い興味を持っていたが、彼女たちには自ら北の領地へ赴く立場にはない。
そのため、最も信頼できるアグネッタに白羽の矢が立ったのだ。
こうして春の柔らかな陽光の中、二人を乗せた馬車は北の地へと向かっていた。
「ところで、師匠は本当に城で滞在する予定なのですか?」
リリアーナは、おそるおそる尋ねた。
アグネッタは、わずかに眉を上げてこちらを見た。
「……私がいたら、不都合でもあるのかしら?」
その静かな声に、リリアーナは思わずドキリとした。
――ある。
――ありすぎる……!
薬草は、きっと手入れされていない。
調合室だって、どうなっているか全く分からない。
ラニアと一緒に湖へ入ったあと、ほとんど何もできないまま、あっという間に王都へ向かうことになってしまったのだ。
(……きっと、きっと城の皆さんが綺麗に管理してくれているはず……)
リリアーナは、願うように胸の中で呟くしかなかった。
二人はついに北の領地へ戻った。
オルフェウス、マルグリット、そしてエドモンドたちが、到着の知らせを受けて城門の外で待っていてくれていた。
「ただいま帰りました!」
リリアーナは満面の笑みで駆け寄る。
「おかえり」
エドモンドは両腕を広げ、優しく迎え入れようとした。
リリアーナは思わずその胸に飛び込みそうになったが、ふと横目でアグネッタを見る。
……なんか、すごく見られてる。
その視線に気圧され、リリアーナは小走りでエドモンドのもとへ近づくに留めた。
「元気でしたか?」
頬をほころばせて声をかける。
「ああ。リリアーナも元気そうで何よりだ」
エドモンドは優しく答えたが、同時に小さく首を傾げた。
……リリアーナ、少し、ふっくらした?
実際のところ、王城では歩く距離が限られ、三食豪華な食事に加えて、一日二度の“お茶休憩”という名のお菓子タイムが毎日の習慣になっていた。
その成果は、彼女の体に正直にあらわれていた。
マルグリットの目が、険しく細くなる。
……ちょっと。そんなに太ったら、結婚式のドレスが入らなくなるじゃない。
一方、オルフェウスは余計なことなど何一つ考えず、ただ元気なリリアーナの姿に心底ほっとしていた。
「セラフィーネたちはどうしたの?」
リリアーナが尋ねると、オルフェウスはわずかに視線を伏せて答えた。
「……彼女たちは、今できることはないと判断して、一度島へ戻った」
「え、本当に?」
リリアーナは目を丸くする。
「ああ。冬の間に、ラディンを助ける方法を探すつもりらしい。春になったら、また来ると言っていたよ」
そう言いながら、オルフェウスはあの時の光景を思い出した。
セラフィーネは強い意志で宣言した。
「絶対にラディンを助けるわ。それまで、私はここを動かない」
だが、技術者は冷静だった。
「冬の泉の水は凍るほど冷たい。人が入れば危険です。まずは方法を調査すべきです」
セラフィーネはそれでも諦めず、もう一度泉に入ろうとした。
しかし、水に足をつけた瞬間――凍りつくような冷たさに体が固まり、動けなくなった。
そのまま、悔しさを胸に抱えたまま、彼女は項垂れて島へ戻っていったのだった。
……オルフェウスには、セラフィーネがもう一度戻って来ると確信していた。
あの時、泉から戻ってきた彼女の姿――赤くなった目、悔しさに震える唇――それは、オルフェウスが初めて見るセラフィーネの一面だった。
いつもは冷静で、どこか余裕を纏っている彼女が、その時だけはどこにもいなかった。
島に戻ると告げた彼女の目には、強い決意の光があるのをオルフェウスは見た。




