心臓に悪い話
「まずは、これを飲んでください」
アグネッタが差し出した器を、彼女はおびえの色を残しながらも素直に受け取り、一息に飲み下した。やがて瞼が重く落ち始めると、診察台へとうつ伏せに横たわる。
反応が完全に消えたのを確かめてから、リリアーナは無言で自らのナイフを取り出した。
リリアーナはそっとベールを外し、彼女の腫瘍を目を細めて見ていた。そして、息を大きく吸った後、迷いのない手つきで腫れ上がった部分を、周囲の肉ごと大きく切り取っていった。
アグネッタは思わず目を大きく見開き、「ひゅっ」と短く息を呑んだ。
………ちょっと、上だけを少し取り除くのじゃないの?
だがリリアーナは一切の躊躇を見せない。
削ぎ落としたそばから、治癒をかけて血を止めていく。
切れ味の鋭いナイフで断面が走った瞬間は、血がほとんど浮かばない。浮かぶ前に治癒されていく様子は、まるで──彼女から流れ出る一滴すら、リリアーナが許していないかのようだった。
そして、切除した棄てられた腫瘍と肉の部分の端からは、じわりと赤いものが滲み始めた。
アグネッタは固く唇を結び、リリアーナの手元を見つめ続けた。冗談ひとつ許さないほど真剣で、切り取ったばかりの腫瘍の跡を鋭く見つめている。
リリアーナは、静かに片手をかざし続けた。
──肉が再生し、皮膚が織りあがっていく。
アグネッタは、息をすることさえ忘れるほどの驚愕を覚えた。目の前で起きているのは、彼女が知る誰の治癒よりも早い。……再生。
リリアーナの額から汗が一筋、二筋と流れ落ち、床に落ちて小さな音を立てた。
それでも彼女の意識は一点に集中している。
やがて──アグネッタの目には、もうどこが患部だったのか判別できないほどになった。
その瞬間、リリアーナがアグネッタを見た。
「終わりました」と告げるように、静かに頷く。
アグネッタははっとして、改めてその跡を見る。そこには、まるで生まれたてのように綺麗な肌が広がっていた。
アグネッタは無言で切除した腫瘍を何重にも布で包み、完全にソレがわからぬように隠す。
続いて、再生したばかりの肌の上に、調合したばかりのどろりとした塗り薬を慎重に塗り始めた。
その様子を見て、リリアーナは小さく眉を寄せ、怪訝そうな表情を浮かべた。
「……綺麗になりすぎよ」
アグネッタは小声で呟いた。
「この薬草は成分が薄いけれど──隠すには最適だわ」
手早く塗り薬を広げると、すぐに布を当て、包帯をぐるぐると巻いていく。
その手つきは淀みなく、迷いがなかった。
しばらくして、処置を受けていた彼女がゆっくりと意識を取り戻した。
アグネッタは付き人を呼び寄せる。
「処置は終わりました。これから一週間は、包帯を外さないで下さい。薬がゆっくりと患部に浸透していきますので」
付き人は驚いたように眉をひそめた。
「そんな……毎日塗り直した方が良いのではありませんか?」
アグネッタは静かに、しかし押し返すような強さを込めて言った。
「そのような処置をする時もあります。でも、彼女の症状は少々違います。一週間、外気に触れさせては決していけません。本当に──大事な時期なのです」
最後の一言には、凄みすらにじんでいた。
付き人は口を閉ざし、しばしの沈黙のあと、深く頷いた。
「……そのように、いたします」
彼女と付き人が部屋を去って静けさが戻ると、アグネッタはゆっくりと肩の力を抜き、リリアーナへ向き直った。
「……あなた、私の心臓を止めるつもりなのかしら?」
その声音は冗談めいているのに、どこか本気の震えが混ざっていた。リリアーナは勢いよく首を横に振る。ぶんぶんと、必死に。
アグネッタはふぅ、と長い息を吐いた。
そして、堪えきれないように笑みを浮かべる。
「本当に……。でも、よく出来たわ」
その言葉に、リリアーナの肩がわずかに震えた。安堵と、認められた喜びが同時にこみ上げた。
──一週間後。
アグネッタの元に駆け込むようにして速報が届いた。
「腫瘍が……綺麗に、完全になくなってます、と連絡が来ました」
包帯を取り除き、腫瘍の跡を見た彼女と付き人は、その場で涙を溢れさせて喜んだらしい。その知らせを聞き、アグネッタは胸を撫で下ろした。
「……どうやら、途中でバレずに済んだみたいね」
小さく呟く声は、安堵と誇らしさで震えていた。
彼女の腫瘍が跡形もなく消えたという話は、王妃の耳にも届き、アグネッタとリリアーナは早々に王妃の私室へ呼び出されることとなった。
「素晴らしい腕前ね」
王妃は柔らかく微笑み、アグネッタに視線を向ける。アグネッタは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
王妃は侍女に軽く合図を送り、静かに命じた。
「人払いを。──リリアーナ、自由にしていいわ」
室内が完全に静まり返ったところで、王妃は椅子に肘をつき、興味深そうに二人を見つめた。
「さて、本当は何をしたのかしら?」
好奇心に満ちた声音だった。
リリアーナは思わずアグネッタへ視線を送る。……話していいのだろうか。アグネッタは小さくため息をつき、念を押すように王妃へ尋ねた。
「本当に、人払いはしてあるのでしょうね?」
「もちろんよ。だからこそ、聞きたいの」
逃がす気はない、とでも言うような王妃の笑み。アグネッタは観念したように肩を落とした。
「……では、リリアーナが行った処置をお話しします」
淡々とした説明が続く。それは普通の治癒師なら尻込みするほどの内容だった。
王妃は聞き終えると、深く息をついた。
「……それは、凄いわね。本当に」
そして少し真剣な表情になり、問う。
「再発はしないのかしら?」
リリアーナは言葉を選びながら答えた。
「出来る限り、腫瘍らしきものは取り除いたはずです。でも……もし再発したら、次は厳しいです」
アグネッタも頷きながら言う。
「同じ処置をもう一度は、できれば避けたいわ。心臓に悪すぎるもの」
「確かに、ね……」
王妃も、しみじみとため息をついた。
その横で、リリアーナはふと首をかしげた。
(……あれ? 最善を尽くしたけれど……何かおかしい?)
「……貴人の身体を躊躇い無く切る行為は、治癒のためとはいえ、普通の人は恐怖です」
という意思を、アグネッタはリリアーナに目で訴えたのだか、全く届いていなかった。




