王妃の言葉
リリアーナの強張った様子を見ていた王妃が、静かに口を開いた。
「王よ。それはつまり、リリアーナにこの王都で過ごせということですか?」
国王は当然のように言い放つ。
「当然だ。儂に何かあった時、すぐに駆けつけられる距離になくては意味がない。貴族や外国の要人を治癒すれば恩も売れる。これほどの能力、活かさぬ手はなかろう」
王妃はゆっくりと頷きながら言った。
「確かに、治らないと思っていた病が治るとなれば、頼る者は数多くなるでしょうね」
「そうだ。儂の名のもとで治癒を行えば、儂の威光も高まる。人が王都に集まれば、王都も栄える。良いことばかりだろう?」
王の満足げな声音に、王妃の瞳が冷たく光った。
「それは王にとって、でしょう?……リリアーナにとっては、違うのではなくて?」
「……何だと」
国王の声が低く沈む。
王妃は一歩も引かず続けた。
「リリアーナは自分の能力を隠すことを望んでいたと聞いております。そうでしょう? 騎士団長」
騎士団長は一礼し、答えた。
「王妃様のおっしゃる通りです。リリアーナは息子を治した際、自らの存在を公にしないよう求めました」
王妃は国王をまっすぐに見据えた。
「国王に仕えるのを希望するのなら、早々に能力を開示していたはずです。それをしなかったのは──リリアーナ自身が望まなかったから。そのくらい、お分かりになりませんか?」
国王は苛立ちを隠さず言い放つ。
「だから何だと言うのだ。能力ある者は、儂に仕えるべきだろう」
「……国王よ。二十年前の水害を覚えておいでですか? 即位されて間もない頃に起きた、あの悲惨な水害を」
王妃は静かに問いかけた。
「ああ、あの時は酷かったな。皆の助けを借りて、何とか死者を出さずに乗り越えられたが」
国王は眉をひそめながら答える。
王妃は小さく首を振った。
「あの時の国王が行ったのは……食料を配れという指示だけでしたわ。その後の治水や土地の整備は、すべて私が行いました。そして、それ以来、水害は一度も起こっておりません」
「……そうだったか」
国王は曖昧に答え、目を逸らした。
王妃はさらに言葉を続ける。
「十二年前の、あの伯爵の謀叛は覚えていらして?」
「……多少はな」
「毎年、身の丈以上の豪華な贈り物を国王に渡していた伯爵の話です。かつて、王は伯爵を非常に良い人物だと評価しておられましたね。しかし──あの金額は明らかに問題でした。私が密かに調べ、伯爵が隣国と裏で繋がっているのを突き止めたのです」
騎士団長が深く頭を下げた。
「その節は、誠にありがとうございました。王妃様の関与は伏せるように、とのご指示でしたが……あの情報は、国の危機を救いました」
国王は唇を歪めた。
「……だから、どうしたと言うのだ」
王妃の声は、上品さを保ちながらも強い圧を帯びていた。王妃の瞳は王を見抜くように向けられている。
「よくお考えくださいませ、王よ」
国王は、王妃の言葉を受けて静かに過去へと思考を遡った。
まだ自分が王子だった頃、王妃候補は五人いた。どの令嬢も美しく、教養も品格も申し分ない。誰が選ばれても国の未来は安泰だと、周囲も本人も疑わなかった。
だが、一人、また一人と候補から外れていき、最後に残ったのは──今の王妃だった。
当時の王子は、それをただの偶然だと思っていた。
「不肖の身ですが、誠心誠意お仕えいたします」
そう言って頭を下げた王妃は、細い身体に儚げな笑みを浮かべ、庇護欲をかき立てる存在だった。
即位式が終わった日のことだ。二人きりになった時、元国王が真剣な顔で若き王に告げた。
「…王妃には、絶対に逆らうでないぞ」
若き王は、夫婦円満の秘訣を教えられたのだと、その時は思った。
……だが、今になって振り返れば、あれは別の意味だったのではないか。
疑念が、国王の胸に重く沈んでいく。
今、決断するには問題か……?
「……王妃の言うように、少し考えてみよう。皆、下がれ」
ようやく国王は口を開いた。声には、わずかな疲労が滲んでいた。
「明日のこの時刻には、リリアーナの処遇を聞かせてくださいませ。私を失望させることは無いことを祈っておりますわ」
王妃は優しい声音を保ちながら、その圧は微動だにせず国王へ向けられていた。
「リリアーナは王都へ来る道中、罪人のような扱いだったと聞いております。どれほど辛かったことでしょう……。リリアーナの身は私がお預かりします」
はっきりとそう言い残すと、王妃はリリアーナを伴って付き人と共に部屋を出ていった。
部屋には、国王と側近、そして騎士団長だけが残った。
国王は重く口を開いた。
「リリアーナは……能力を隠していたのか」
騎士団長は一歩進み出て答える。
「はい。リリアーナは近く、北の領土のエドモンドと結婚する予定だと聞いておりました。平穏な未来を望んでいたのではないかと」
「以前、城に来たときは治癒の能力は無かったはずだ……」
王は過去を振り返る。
「おそらく北の地で開花したのでしょう。あそこは魔獣被害の多い土地。強く“治したい”と願えば、潜在していた力が形になってもおかしくありません」
「……ふん。まあいい。下がれ」
国王は手で退室を促した。
騎士団長が出ていくと、国王は低く呼んだ。
「影を呼べ」
すぐに空気が揺らぎ、影が姿を現した。
「リリアーナが罪人のような扱いで王都まで来たというのは、本当か?」
影は淡々と答える。
「どのような手段でも、と伺っておりましたので」
「まさか、無理やり連れたわけではあるまいな」
「いえ。少し脅したのみです」
影の、オルフェウス達を拘束し、解放と引換にリリアーナを王都に連れてきた、という話を聞き、国王はしばし沈黙した。眉間に深い皺が寄る。
「……オルフェウス達は、直ちに解放しろ。あとは王妃とリリアーナの動きを観察しろ。特に、王妃の動向には注意しろ」
「かしこまりました」
影はすっと視界から消えた。
国王は側近に向き直り、重い声で問う。
「お前は、王妃の動きをどう思う?」
側近は少し考えた後、静かに言った。
「たかだか一人の治癒能力者に、あそこまで拘るのは不自然です。何かあるのでは?」
国王は深く息を吐き、目を伏せた。
「やはり、そうか……。何か見落としていたのかもしれぬ」
だが、それが何であるのか──国王にも側近にも分からなかった。




