リリアーナ、エドモンドの元に
ラディンはリリアーナを抱え、泉の冷たい水をかき分けながら泳ぎ始めた。だが、その刹那——背筋を撫でるような、ぞくりとした気配が走った。
――ラニア。
本能が、鋭く警鐘を鳴らす。
「目を、覚まそうとしている……!」
ラディンは歯を食いしばり、渾身の力で水面へと向かった。水を蹴る脚が重く、息が苦しい。けれど、リリアーナを離すことはできなかった。
ようやく顔が水面を破り、空気の冷たさが肌を刺す。ラディンは激しく息を吐いた。
「エドモンド!リリアーナを引き上げてくれ!」
怒鳴るように叫びながら、彼はリリアーナの身体を岸辺へと押し上げた。
エドモンドが駆け寄り、彼女をしっかりと抱え上げる。
「よし……!」
ラディンはほっと息をつき、水面から身を引き上げようとした——その瞬間。
何かが、彼の足を掴んだ。
ぐい、と強い力で、泉の底へと引きずり込む。
「ラディン!!」
遠くでセラフィーネの声が響いた。
次の瞬間、頭の中に柔らかくも冷たい声が流れ込んでくる。
——「なんで、ぼくの邪魔をするの? リリーと一緒にいたいだけなのに」
ラニアだ。
ラディンは心の中で怒鳴り返した。
「リリアーナは、物じゃない! 勝手に人を縛るな!」
だが、返ってきた声は悲しげだった。
——「……ラディンなんて、ぼくの気持ちわからないよ」
そんなもの、わかるわけがない。
――「…ぼくを、ひとりにしないで」
「……もしかして、寂しいのか?」
ふと、ラディンの胸にその言葉が浮かんだ。
すると、水の奥から優しい声が響く。
——「ラディンも寂しい? だったら、ぼくと一緒だね。リリーほど好きじゃないけど……ラディンも好きだよ。だから、ぼくと一緒に眠ろう」
「待て、俺は……!」
だが言葉は泡に変わり、意識が暗闇の底へ沈んでいく。
水の重みが、まるで永遠の眠りへ誘うように、彼の身体を包み込んだ。
——「一緒なら、寂しくないよ」
最後に聞こえたラニアの声は、優しく、そしてどこか哀しかった。
ラディンの身体は、泉の底へと静かに沈んでいった。その先には、ラニアが目を閉じたままの姿が、あった。
地上において、エドモンドは震える手でリリアーナを抱きしめた。――冷たい。まるで氷のように。
「リリアーナ…?」
彼はその頬に触れた。呼吸が、ない。だが——脈は、かすかに、ある。
「頼む……!」
青ざめた顔のまま、エドモンドはリリアーナの胸の上に手を置いた。リズムを刻むように、必死に心臓マッサージを始める。
静まり返った森の中で、空気だけが揺れた。
「お願いだ、戻ってきてくれ……!」
その祈りに応えるように、リリアーナの口から「ごぼっ」と水がこぼれ落ちた。次いで、弱々しい咳。震えるまつげが、ゆっくりと開いた。
「……ここは……?」
その声を聞いた瞬間、エドモンドは彼女を強く、壊れそうなほど抱きしめた。
「リリアーナ……! 本当に、よかった……!」
その腕の中で、リリアーナはまだ震えていた。
――だが、その間にも、泉の方では別の光景があった。
セラフィーネは、目を凝らしていた。ラディンの姿が、見えない。ほんの一瞬前、彼はリリアーナを岸へ押し上げたはずだった。
けれど次の瞬間、まるで誰かに引きずり込まれるように、その姿は水の底へ消えた。
泉は小さく波紋を残し、やがて沈黙した。
「……ラディン?」
呼びかける声が震える。嫌な予感はあった。
——それでも、それは、違うと信じたかったのに。
セラフィーネが泉に近づこうとしたとき、技術者が腕を掴んだ。
「いけません。何が起こるのか、分かりません!」
セラフィーネは振り返る。文官も顔色を失っていた。
そのとき、エドモンドの低い声が響く。
「城に戻る。」
リリアーナを抱いたまま、彼は立ち上がった。
「待って。ラディンが、泉に引き込まれたわ!」
セラフィーネの声は悲鳴に近かった。
「リリアーナが濡れたままだ。着替えもない。今は、温めなければ」
エドモンドの声は冷静だった。だが、その瞳の奥には、苦悩が滲んでいた。
リリアーナの唇は青く、歯が震えていた。
その小さな体を守るように、エドモンドは腕を強く回す。
「ラディンを……見捨てるの?」
セラフィーネの声が震えた。だが、返ってきた言葉は静かで、重かった。
「今、俺たちには何もできない。」
エドモンドはそれだけ言い、振り返ることなく歩き出した。足早に、冷たい風を切りながら。
「……待ちなさい!」
セラフィーネは叫んだ。けれど、その背は止まらなかった。
歩きながら、エドモンドはぽつりとつぶやいた。
「ラニアなら……ラディンを殺すことはない。おそらく……」
その声は自分に言い聞かせるようで、どこか哀しかった。
セラフィーネはしばらく泉を見つめていた。
静まり返った水面には、もう何の気配もない。
「今の私たちでは、手立てがございません……」
技術者の声が小さく響く。
セラフィーネは唇を噛みしめた。血の味がした。
「……そうね」
風が泉を渡る。波紋ひとつ立たない静寂の中で、彼女は振り返り、エドモンドの後を追った。
一方その頃——国王の影は、焦燥に駆られていた。
どれほど探しても、リリアーナの姿が見つからない。隣国にも赴いた。森に棲む族にも、他の部族にも、古い隠れ里にも足を運んだ。
だが、どこにも——彼女の「影すら」なかった。
まるで、この世から跡形もなく消えたかのように。
影の胸に、初めて冷たい恐怖が走った。これまで、どんな者でも見つけ出せなかったことなどなかった。だが、今回は違う。報告すべき主に顔向けできぬほど、何も掴めない。
「……どうなっている」
呟きは風に溶け、闇に飲まれる。時間だけが過ぎていく。焦りが、じわじわと心を蝕んでいった。
そんなある日——影は奇妙な報せを受けた。
「三人の男女が、領地に現れた」と。
「……三人?」
誰だ。何者だ。
影は気配を殺し、その姿を探った。一人は金の髪の青年、もう一人は女、そしてもう一人は技術者風の男。
翌日、その三人とエドモンドが姿を表した。
「……エドモンドが、動いた?」
影の胸にざわめきが走る。
三人とエドモンドは、やがて森へと入っていった。深い、光も届かぬ森の中へ。
そこから先は、追うことができなかった。
森は複雑で、足跡も、気配も、掴みづらい。何より、尾行は見つかる可能性がある。…影は、森には慣れていなかった。
影は唇を噛み、息を潜めた。——待つしかない。影はただ、森の出口を見張り続けた。
やがて、微かな足音がした。……出てきた。
そして、影は見た。エドモンドの腕の中に、あの少女——
「……リリアーナ……!」
声にならぬ声が、影の喉の奥で震えた。
探し求めていた、その人がそこにいた。
生きて、戻ってきたのだ。
影は拳を握りしめた。そして、静かにその場を離れた。




