屈強な男の話
「――治癒の能力があるらしいな」
低く響く声とともに、大柄な男は馬を降りた。
その気配に、エドモンドの肩が自然と強張る。
男は一歩、また一歩と近づき、鋭い眼差しでエドモンドを見据えた。
「……もしかして、お前……エドモンドじゃないのか?」
エドモンドは一瞬、目を細めた。
風が二人の間を抜ける。
「……騎士団長ですか?」
ようやく、静かにそう問い返した。
男はわずかに口角を上げた。
「そうだよ。こんな格好じゃ分からんか」
軽く髪をかき上げながら笑う。
「普段は髪を崩してるんだ。服も、見違えただろう?」
その言葉にはかつての豪放さがにじんでいた。
だが、すぐに声の調子が変わる。
「ところで、お前……領地に戻ったんじゃなかったのか? どうしてここにいる?」
矢継ぎ早に投げかけられる問い。
エドモンドは口を開きかけて、言葉を探した。
「……色々、訳がありまして」
曖昧に答えるほかなかった。
沈黙を破ったのは、騎士団長の軽い動作だった。
彼はふと馬車の方へ視線を向け、窓の奥を覗き込む。
そこに見えたのは――紫の髪。
「……まさか」
驚きの声が漏れ、次の瞬間、目を見開いた。
「リリアーナ、か」
その名を呼ぶ声には、少しの懐かしさと驚愕が入り混じっていた。
彼にとってリリアーナは、忘れがたい相手――かつて、剣を交え、若いながらも力量を認めた少女。
リリアーナは、外に立つ男の姿を見た。
――あの人が、どうしてここに。
かつて王城で剣を交えたとき、彼女の刃は一度たりとも届かなかった。
圧倒的な力量差を思い知らされた相手――それが、今目の前にいる騎士団長だった。
団長はエドモンドを見据え、低く言った。
「知らない仲じゃないんだ。……少し、話をさせてくれないか?」
エドモンドは一瞬だけ目を伏せた。
学園時代、騎士科の授業で何度か団長に指導を受けたことがある。剣の構え、呼吸、そして「人を守る」という意味――そのすべてを叩き込まれた。
……逃げるのは、無理だな。
そう心の中でつぶやき、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
団長は小さく息をつき、「すまんが、さっきの場所に戻ってくれ」と言った。
逆らえば、事を荒立てるだけだ。エドモンドは指示を出した。御者は手綱を握り直し、馬車を反転させた。
車輪の軋む音だけが、静かな森に響く。
リリアーナは窓の外を見つめたまま、何も言わない。
ふいに、ラニアが小さな声で尋ねた。
「ねぇ、何か……出来ること、ある?」
エドモンドはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「今は、何もしなくていい」
その声は穏やかだったが、張り詰めた空気が馬車の中を包み込んでいた。
三人の沈黙は、やがて重く、静かな祈りのように続いた。
エドモンドたちは、先ほど出発したばかりの屋敷へと戻った。
玄関先に姿を見せると、男は驚きとともに顔色を変える。
「兄さん、……まさか無理矢理……?」
問いかける声は震えていた。
それに対し、騎士団長はあっけらかんと言う。
「いいや。知り合いだったんだ。話をしたら、協力してくれることになった」
……待て。誰も、そんなことは言っていない。
エドモンドは一瞬だけ眉をひそめたが、黙っていた。
案内された客室に全員が腰を下ろすと、団長は腕を組んで話を切り出した。
「紹介する。こっちは俺の弟だ。そして、こっちが息子のレオンだ」
男は気まずそうに頭を下げ、
少年のレオンは包帯越しに気配だけを感じ取るように、小さく礼をした。
「レオンは、俺が年を取ってから授かった子でな。……ついつい甘やかしてしまったんだ」
団長の声音は、普段の厳しさからは想像できないほど柔らかく、深い父の色を帯びていた。
それを聞きながら、エドモンドとリリアーナは視線を交わす。
場は和やかにも見える――だが、その裏にある目的は、まだ不透明だった。
「レオンは、目を怪我していてな。」
団長はゆっくりと言葉をつないだ。
「一ヶ月前に別荘へ行った時、目を離した隙に、ひとりで少し離れた森の泉へ向かったらしい。普段は安全な場所なのだが……今年は毒蛙が大発生していてな。どうやら、その毒が目に入ってしまったようなんだ。目が見えなくては、動けない。泣き叫んでいるところを、近くの狩人が見つけてくれて助かったのだが………」
悔しさと後悔が滲む声音だった。
「発見された時は、全身に毒を浴びていて……それは酷い有り様だった。だが治癒師に頼み、薬師にも診せ、ようやくここまで良くなった。しかし――どうしても目だけは、治らない。」
団長は拳を握りしめた。
エドモンドは沈黙したまま、その言葉を噛みしめる。
……それは、もしかするとこの世界の誰も治せない傷なのではないか――。
そんな予感が、重く胸に落ちた。
「リリアーナは、イレーネを一度の治癒で綺麗に治したそうだな。……頼む。レオンを診てやってくれないか。」
団長の声は硬く、必死さがにじんでいた。
リリアーナは、そっと視線を落とし、弱々しく言った。
「……私は、目の治療をしたことがありません。おそらく、無理だと思います」
「無理かもしれん。それでも、見るだけでもいい。どうか……。」
団長の願いは切実だった。
しかし、その横からか細い声が割って入る。
「今回も、どうせ何も出来ないよ。父さん、もういいって……。」
包帯で覆われた目の下から、子供らしからぬ諦めが滲んだ声音。
レオンはぎゅっと両手を握りしめ、唇を噛んでいた。




