リリアーナ、イレーネを治す
男は、静かに口を開いた。
「もう一度、聞くが――君は、本当に治癒の能力を持っているのか?」
その問いに、リリアーナは息を呑んだまま固まった。
沈黙が部屋を満たし、灯の揺らぎだけがかすかに影を動かす。
代わりにエドモンドが口を開いた。
「……だとしても、簡単に治癒の能力は使えません。事情がありまして」
男は頷き、低く答えた。
「そのとおりだ。治癒の力というのは、個人差が大きい。小さな怪我しか癒せない者もいれば、死の淵から救える者もいる。……しかし――ラニア、と言ったか? 君は確か、“リリーなら治せる”と言っていたね」
ラニアは涙の残る目で、真っ直ぐに男を見上げた。
「うん。リリーなら、治せるよ」
男は小さく息を吐いた。
「……そうか。ならば、こうしよう。もし治癒の能力を隠しているのなら、イレーネが回復したことは、誰にも分からないようにする。普通に治る時期まで、ここで隠れて過ごしていればきっと大丈夫だ」
エドモンドは眉をひそめた。
「……ですが、秘密というものは、いつか漏れることもある」
男は静かに頷いた。
「その時は、出来る限り彼女の安全を最優先にしよう」
その言葉には、真剣さがあった。だが、それでも二人の胸には迷いが残る。
リリアーナはエドモンドを見つめ、エドモンドは小さく首を振った。
どちらの目にも、簡単には答えを出せない葛藤が浮かんでいる。
沈黙の中で、ラニアがぽつりと呟いた。
「……もしイレーネの怪我が治ったら、いっぱい話をしたりできるのかな?」
男はその言葉に、ふと目を細めた。
――この子は、町にいた頃のイレーネを知っているのかもしれない。買い物に来ていた時に、何度か顔を合わせていたのだろう。
「もちろんさ。怪我が治ったら、きっとたくさん話せるよ」
男の声は、優しく、どこか温かかった。
ラニアはその言葉に顔をくしゃりと歪めた。
「ねえ、リリー……お願い。イレーネを治して」
そう言って、彼女は小さくしゃくり上げながら泣き始めた。
その声は、抑えきれない思いと祈りが混じり合ったような、幼い震えだった。
リリアーナは、そんなラニアの背をそっと抱き寄せ、胸の奥が痛むのを感じた。
エドモンドも、拳を静かに握りしめる。
部屋の中には、沈んだ夕暮れの光が差し込み、
三人の影を柔らかく包み込んでいた。
「……私、治してみます」
リリアーナの声は、小さく、それでもはっきりと響いた。
部屋の空気が、少しだけ動いたように感じられる。
「……しかし――」
エドモンドが制止の言葉を口にしかけた。
けれど、リリアーナは静かに首を振った。
「ずっと辛い思いをしている彼女を、このままにしておくのは……私自身が、嫌なのです。お願いです。我が儘だと思って、聞いてください」
その瞳は、決意と優しさが混じり合っていた。
エドモンドは言葉を失い、しばらくリリアーナを見つめた。
やがて、深く息を吐く。
「……仕方ない、な」
その声には、あきらめではなく、静かな信頼が滲んでいた。
男は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……お願い、できるのか?」
リリアーナは迷いなく頷いた。
「必ず治るとは言えませんが……努力してみます」
その言葉は、夜の静けさに溶けるように穏やかだった。
外はもう、暮れかけていた。
窓の外に見える空は紫と群青のあわいを帯び、
遠くで鳥の声がひとつ、消えるように響いた。
「今日はここで泊まっていくといい」
男がそう申し出たとき、エドモンドは一瞬、言葉を選ぶように黙った。
しかし、今夜泊まる宿は決めていない。断る理由もなかった。
「……お言葉に甘えます」
静かにエドモンドは答えた。
イレーネを見に行った男は、イレーネが静かに寝ているのを確認して言った。
「……治癒は明日にしてくれないか?彼女は、寝ているから」
それを聞いたリリアーナはそっと息を吐いた。明日、必ず彼女を助けたい――そう胸の奥で強く願った。
翌朝。
まだ柔らかな朝の光が窓辺を照らすころ、リリアーナは静かにイレーネの部屋の扉を開けた。
「……入ってもいいですか?」
その声に、イレーネはゆっくりと頷いた。
エドモンドと男は外で待ってもらうことにした。
部屋の中には、ラニアと年配の女性が少し離れた場所で見守っていた。
リリアーナはそっとベッドのそばに近づき、柔らかな声で言った。
「私はリリアーナと申します。これから、背中の治療をしてみますね。……背中を見てもいいですか?」
イレーネは静かにうなずき、体を横にして背を見せた。
包帯を解くと、焦げついたような皮膚が目に入る。
赤黒く焼けただれた跡は、痛みを語るように広がっていた。
リリアーナの胸が締めつけられた。
「こんなに……」
それ以上の言葉は出なかった。
彼女は深く息を吸い、両手をそっとかざした。
瞳を閉じ、心の奥底で祈るように願う。
――治って。どうか、この痛みを終わらせてあげて。
――お願い……全て、癒えて……。
やがて、手のひらの中から淡い光が生まれた。
その光はイレーネの背を包み込んでいく。
けれど、途中でリリアーナは胸の奥に小さな違和感を覚えた。
……昔の傷? 何かが、引っかかる……。
それでも彼女は目を閉じたまま、光を途切れさせなかった。
どれほどの時間が経ったのだろう。
額に汗が滲み、全身が重く感じられる。
リリアーナは息を切らしながら、ゆっくりと目を開けた。
そこにあったのは――
もう、傷ひとつない、滑らかな肌だった。
リリアーナは一瞬、信じられなかった。
そして小さく息を吐き、震える声で言った。
「……できた……」
その言葉を合図に、ラニアが駆け寄った。
「リリー! すごい! 本当にすごいよ!」
小さな体でリリアーナに抱きつく。
年配の女性は両手で口を覆い、涙をこぼした。
「……奇跡、だわ……」
その瞬間、部屋の空気がやわらかく揺れた。
光がカーテンの隙間から差し込み、イレーネの頬を優しく照らす。
イレーネはゆっくりと目を開け、呟いた。
「……痛く、ない」




