リリアーナの回復
どれほどの時間が経ったのか、誰にも分からなかった。
やがて――リリアーナの指が、かすかに動いた。
そして、ゆっくりとまぶたが開く。
ぼんやりとした視界の中で、見慣れた天井が揺れていた。
身体にあった、あの重い違和感が……消えている。
それは安堵にも似ていたが、同時に、何かを失ったような寂しさを伴っていた。
胸の奥が、静かに空白をつくっていた。
首だけを動かし、辺りを見渡す。
すぐそばに、ラディンとエドモンドの姿があった。
二人とも疲れ切った表情で、床に座り込んでいる。
そのとき、空気がわずかに動いた気配を察したのか、ラディンが顔を上げた。
「……リリアーナ。どうだ?」
彼女はしばらく言葉を探し、そしてゆっくりと答えた。
「……身体のなかにあったものが、無くなってる……」
「そうなのか?」
エドモンドが立ち上がり、リリアーナの傍らへ歩み寄った。
「うん。確かに、ないよ」
リリアーナはゆっくりと微笑みながら答えた。
その声に力はなかったが、確かな実感が宿っていた。
部屋の空気が、ふっと緩む。
張りつめていたものがほどけ、安堵の気配が静かに広がった。
「寝ていれば、魔力は回復するだろう。……リリアーナ、今は寝ていろ」
エドモンドは優しく言い、毛布を整えた。
「うん」
リリアーナは素直に頷き、再び目を閉じた。
その呼吸が落ち着いていくのを見届けてから、エドモンドは深く息を吐いた。
少しして、彼は振り向き、ラディンに問う。
「さて――その瓶は、いったい何なんだ?」
ラディンは瓶を手に取り、赤い液体がゆらめくのを見つめながら答えた。
「……種から芽吹いた“モノ”を入れるための、依り代――とでも言えばいいのかな」
エドモンドは眉をひそめる。
ラディンは続けた。
「セレナが精霊たちに聞いてくれたんだ。いろんな情報を集めて、その中にあった一つの可能性――リリアーナの魔力を込めた“血で満たされた器”があれば、そこに“移せる”かもしれない、って。
確かな術じゃない。……賭け、だったんだよ」
ラディンの声には、疲労と、かすかな追憶が混じっていた。
数日後――リリアーナは、まるで何事もなかったかのように起き上がっていた。
顔に血色が戻り、足取りもしっかりしている。
「……起きて、大丈夫なのか?」
驚いたようにエドモンドが声をかける。
「うん」
リリアーナはにこやかに笑って答えた。
その穏やかな笑顔に、先日までの危うさは微塵も感じられない。
まるで、あの日々が幻だったかのようだった。
「ラディンが持ってきた瓶を、見て来るね」
「……まあ、いいだろう」
リリアーナは、客室にいるラディンのもとへ向かった。
ラディンはあの夜、疲労のあまり城に泊まっていた。彼は、瓶の扱いや今後のことを相談するため、数日城に滞在することになっていた。
「ラディン、失礼していい?」
リリアーナは、ラディンの滞在している部屋の扉の前で声をかけた。
「いいぞ」
中から返事があり、静かに扉を開けると、ラディンは机の前に座っていた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を淡く照らしている。
「何してたの?」
リリアーナが尋ねると、ラディンは視線を動かさずに答えた。
「……これを、見てたんだ」
その視線の先――机の上には、あの瓶があった。
瓶のまわりには、模様の描かれた布が丁寧に巻かれている。
布の隙間から覗く液体は、どこか淡い光を宿していた。
「何か……変わったの?」
リリアーナが近づきながら問う。
ラディンはしばらく黙って瓶を見つめ、それからゆっくりと口を開いた。
「……前より、赤い色が薄くなった気がするんだ」
リリアーナは瓶を見て、目を細めた。
リリアーナは、あれから、瓶を一度も見ていなかった。エドモンドが、瓶の近くに行くことを心配したのだ。
リリアーナは瓶に歩み寄ろうと、一歩、足を踏み出した。
「待て」
低い声が部屋の空気を震わせた。
ラディンが手を伸ばし、制するように言った。
「まだ近づくな。……何が起こるか、わからない」
その言葉に、リリアーナは足を止めた。
だが――彼女の背後にふわふわと漂っていた、お雪様が動いた。
お雪様は、まるで何かに引き寄せられるように、まっすぐ瓶へと向かっていく。
「……お雪様、待って!」
リリアーナが声を上げるより早く、ラディンが反応した。
彼は咄嗟に瓶を掴み、自分の後ろへと隠した。
動きを止めるお雪様。
だがすぐに、右へ、左へと揺れながら、じりじりとラディンへ詰め寄る。
その動きは、どこか焦燥を帯びていた。
ラディンは瓶を守るように身を引き、後ずさる。
だが次の瞬間、お雪様が大きく動いた。
お雪様を避けようと、大きく身を捩った時――ラディンの手が滑った。
「危ない!」
リリアーナは反射的に身を投げ出し、瓶を受け止めようと腕を伸ばした。
その拍子に、瓶を覆っていた模様入りの布がするりと緩む。
そして――お雪様が、閃光のような速さで瓶の中へ飛び込んだ。
瞬間、部屋は眩い光に包まれた。
目を開けていられないほどの白い輝き。
光が静かに収まったとき――
リリアーナの両手の中には、冷たいガラスではなく、柔らかな温もりがあった。
そこには、裸のままの幼い女の子が、目を閉じていた。




