海の上での会話
――出港の日。
港は朝の霧に包まれていた。白く霞む海の向こうに、船の帆が静かに揺れている。
ラディンは岸辺に立ち、ゆっくりと息をついた。
「ここには、精霊の声が聞こえるセレナがいる。魔道具も色々あるらしい。少し調査をしてから戻る。……二人で行ってくれ」
「なら、私も残る……」とリリアーナが言いかけた。
ラディンは首を振る。
「駄目だ。エドモンドが迎えに来てるんだ。帰りを待ってる人たちが、いるだろう」
風が彼女の髪を揺らした。リリアーナは何か言いたげに唇を結ぶ。
その沈黙を破ったのは、セラフィーネだった。ラディンに問う。
「次の船は、いつになるか分からないけど……それでも、いいの?」
ラディンは、静かに海を見つめた。
「ここは、精霊がたくさんいるんだ。何か手がかりがあるかもしれない。……きっと、戻っても俺は、何も出来ないからな」
その声は、潮風に溶けるように消えていった。
やがて、船の鐘が鳴る。
リリアーナは最後に一度だけ振り返った。
ラディンは動かず、ただ穏やかに頷いた。
白い帆が風を受け、船はゆっくりと港を離れていく。
波の音だけが残り、岸辺に立つラディンの影が、長く伸びていた。
――船は、穏やかに進んでいた。
空はどこまでも青く、雲ひとつない。
海は陽の光を受けて、無数の宝石のようにきらめいている。
世界はこんなにも美しい――なのに、リリアーナの心は重かった。
甲板の上で、二人は並んで海を見つめていた。
風が髪を揺らし、白い波が遠くで弾ける。
「ねぇ……別れようか?」
リリアーナの声は、潮風に紛れるほど小さかった。
エドモンドは驚いて振り向いた。
「なんで……」
リリアーナは目を伏せたまま、囁くように言った。
「私、どうなるか、わからないよ?」
「嫌だ」
その言葉は、すぐに返ってきた。
迷いも怒りもない、ただ真っすぐな拒絶だった。
「……時間の、無駄かもしれないよ?だって、普通、種が育つには、栄養が必要なんだよ?
生きている宿主が死ぬ植物、色々あるよ?薬草の本で、見たもの……」
リリアーナの声が少し震えた。
エドモンドは拳を握りしめたまま、静かに言った。
「そうだとは、限らない。俺は、絶対に別れない……。だから、そんなこと言わないでくれ……」
風が通り過ぎ、波の音が二人の間を満たした。
世界はどこまでも穏やかで、どこまでも残酷だった。
リリアーナは涙をこぼさず、ただ遠い水平線を見つめていた。
――海は、ゆるやかに波を立てていた。
リリアーナは静かに鞄を開け、小さな布袋を取り出した。
中から、指先に収まるほどの丸い玉を取り出し、しばらく見つめた後、海に向かって腕を伸ばす。
けれど――その手は途中で止まった。
「それは、何だ?」
エドモンドの声に、リリアーナはゆっくりと手を開いた。
掌には、光を透かす透明な玉が一つ、ころんと乗っていた。
「……貰ったの」
「セラフィーネからか?」
「そう。……魔力を込められるの」
「今、出来るのか?」
「出来るよ」
リリアーナがそっと目を閉じると、玉の中に淡い光が生まれた。
それはすぐに銀色に染まり、かすかに虹のような色が混ざっていく。
「すごいな……」
「そうかな?」
リリアーナは微笑み、玉を見つめた。
だが、その光はやがて静かに薄れていき、再び透明に戻った。
「魔力を抜いたの」
小さく息を吐いて、リリアーナは続けた。
「今より魔力が高くなったら、“お雪様”と話せるかもって。
もっと魔力操作が上手くなったら、何か良い方法があるかもって……そう言って、くれたの」
しばらく沈黙が続いた後、エドモンドが言った。
「……俺に貸してくれないか」
リリアーナは玉を渡した。
エドモンドは両手でそれを包み込み、深く息を整える。
「……込められ、ないぞ」
「うん。コツがいるかも」
それでもエドモンドは諦めず、長い時間、静かに目を閉じていた。
やがて彼が手を開くと、玉はうっすらと銀色に、そしてその奥に、青の光が差していた。
「……色が違うね」
リリアーナは寂しそうに笑った。
「……そうだな。でも、悪くない」
エドモンドは玉をそっと返し、言葉を続けた。
「俺も、練習するよ。先はまだ、決まっていない。……だから、傍にいて欲しい」
リリアーナは目を潤ませながら、小さく頷いた。
「……うん」
次の瞬間、エドモンドの腕が彼女の肩を包んだ。
リリアーナの肩は小さく震えていたが、その震えは――涙のせいだけではなかった。
どこか遠くで、光が海面に跳ねていた。




