39 闇の中の真実
シミだらけのマットレスに横たわっているのは、下着姿の死体――だった。
ミイラ化、というか骨格に干からびた皮が貼り付いているような、そんな状態。
眼球は失われていて、ひび割れた半開きの唇の周りには、短い髭が密集している。
恐らくはまともな死に方をしていないし、まともな人間でもなかったのだろう。
長い黒髪のカツラをかぶり、元は白色だと思しきベビードールとガーターベルトを装着しているのに、パンツはブリーフだという奇抜にも程があるファッション。
それと、胸に突き立てられた錆びの浮いた鉄筋から、ユリカはそう推測する。
死体の周りをぐるっと移動してみると、男より二回りほど小さい白骨死体が転がっていた。
「何が……何なの……?」
ユリカは直感的に、それを少女の骨と認識した。
死んだ男の右手は、その首を掴むような形で伸びている。
頚骨が砕けているかに見えるが、一体ここで何があったのか。
自分が見ているものの意味を考えていると、そこに異物が紛れ込んでくる。
カン、カン、カン、と梯子を降りてくる音の連なり。
鹿野、だ。
眼前の異様な光景よりも、背後の異常なおっさんをどうにかしなければ。
焦り慌てて、浮き足立ってしまう気持ちを抑え、ユリカはこの場を切り抜ける方法を考える。
とりあえず、武器になりそうなものは――
「……これしかない、か」
女装死体の胸に刺さった、細長い錆びた鉄筋。
強度に不安が残るし、殺人事件の凶器であり証拠品であろう物体を素手で握るのも、少なからず躊躇させられる。
だけどもう、四の五の言ってられない。
覚悟を決めたユリカは、鉄筋の端を握るとグッと引き上げた。
抵抗らしい抵抗もなく抜けたそれは、長さが八十センチほどあって先が斜めに切れている。
軽く振ってみれば、重量感はないがそれなりに頑丈そうだ。
これで殴るなり刺すなりして、鹿野が怯んだところで逃げれば――
「うん、逃げる……逃げられる、絶対。問題ない。全部、上手くいく」
ユリカは口の中で呟いて、自分に言い聞かせる。
左腕が主張してくる痛みに加えて、右膝にも無視できない違和感があった。
でも、そんな泣き言はどこにも届かないので、歯を食い縛って飲み込む。
梯子を降りてくる音が途切れ、足音に変わった。
間を置かずに、鉄格子の扉が開く音が響く。
明かりを消すべきだったか、と少し後悔している内に、闇から鹿野の姿が浮き出てくる。
「つい、についに、ここにも……ここまでも。あのそれが、わた……しで、僕で? だからね。終わ、りだったから、それでもあ……のガキならどこまで、どこまでも邪魔なん……だし」
アクセントや息継ぎのタイミングが狂った、意味の通らない言葉のダダ漏れ。
こちらに聞かせようとしているのか、単に頭に浮かんだ内容を吐き出しているのか、ユリカにはわからない。
確かな事実と断言できるのは、目の前で笑いを堪えるように肩を揺する鹿野が、正気を失っていることだけだ。
どこかに捨ててきたのか、ミクの死体は見当たらない。
鹿野の右手にあるのは、例の刃が捻じくれたナイフだ。
虚ろだった双眸には、歓迎できない類の熱が宿っているのが見て取れる。
殺意、悪意、邪意、害意、敵意――視線に混入した露骨なマイナス感情の数々が、ユリカの足を竦ませた。
鹿野はカーゴパンツのポケットに手を差し入れ、何かを掴み出す行動を繰り返す。
握った手を開く度に、半ば炭化した布の破片や紙屑が散る。
ハッキリ見えないが、ユリカはそれを御守りや護符の成れの果て認識した。
「仕方、ないのですだ! から。やらなきゃ……なのに、できてない。じゃあ! どうするのか? じゃあ――する。します! わかれよね、キミィ! いてもいなく……ても。なら、なるかとしか、あれば! そうなんだろ⁉ そう、なんだろっ⁉」
ボリューム調整までおかしくなった、謎めいた主張はダラダラと続く。
鹿野が何を言っているのか、ユリカにはサッパリわからない。
だけど、自分に向けられている奇怪な形の刃物、その危険性だけは理解できる。
ユリカは鉄筋を両手で握り込むと、それを低い位置で構えた。
動きを止めていた鹿野は、意外に力強い足取りで部屋の中へ侵入してくる。
ぐるりと部屋を見回し、それからユリカに視線を停め、もう一度ゆっくり部屋を見回す。
ユリカは鹿野の動きから目を離さず、入口から一番遠い壁際まで後退。
鹿野の手が、マットレスの上で干からびている死体に伸びる。
そして黒髪のカツラを毟り取ると、それを埃も払わず自分の頭に乗せた。
「ああ、そうだ。帰って、きた。これた。ボクの部屋。ボクのキミ。ボクのキミたち」
一言一言を噛み締めるように吐き出す鹿野は、愛おしげに目を細めながら、バサバサに乱れたカツラを撫でている。
よく見れば、カツラには多数の結び目があった――長さの違う髪を何房もつなぎ合わせてあるようだ。
工場に現れる、髪の長い女の霊。
地下室に転がった、男の変死体。
出る理由が不明瞭な、少女の霊。
男の傍らに横たわる、少女の骨。
様々な状況の意味や関係が、もう少しで全部つながりそうに思える。
しかし今のユリカに、落ち着いて考えている余裕がなかった。
鹿野は妄言を垂れ流し続けているが、耳鳴りと心音が邪魔してよく聞き取れない。
何故か金気のある雑音まで混ざってくる――が、これは手が震えているせいで、握った鉄筋の先が床を擦っているのが原因だ。
「終わり、じゃない……違うな。終わりが、ない。ずっと、ここで、ここが……ここなら何の、心配も。だから、ずっとずっと、ここの……」
変な形の凶器を逆手に構えた鹿野が、無表情でユリカに寄ってくる。
言葉にも動作にも感情が介在した形跡がなく、ひたすらに気味が悪い。
「くぁあっ、来るなっ!」
声が裏返りそうになりつつ、警告の叫びと低い軌道での一振りで牽制を試みるユリカ。
だが鹿野は避けようともせず、左足を鉄筋が掠めても止まらずに、ずいずいと踏み込んでくる。
足がダメなら、頭を――もう一度振りかぶろうとしたユリカだが、鹿野に鉄筋が掴まれて引き抜かれてしまった。
「ぅあっ――あ?」
唯一の武器を失ったと理解した瞬間には、それは投げ捨てられ床を転がっていた。
殴って逃げるのが失敗したら、どうするんだったっけ――
半秒ほど考えてノープランだったと思い出し、ユリカはとにかく逃げなければの一念でもって、鹿野の脇を駆け抜けようとした。
「ふぉぶっ――」
ユリカの乾いた唇から、意味を成さない声が漏れた。
転んで床についた右手の神経が、深刻な怪我の発生を通知してくる。
背中と腰の境目辺りに、人が乗られた重みがある。
どうやら膝の状態が想像以上に悪くて動きが鈍り、そのせいで鹿野に押し倒されるか引き倒されるかしたみたいだ。
ユリカがそんな分析をしていると、視界の隅に変なナイフがチラつく。
こんなワケのわからないものが、自分の人生に終わらせるのか。
狂人に殺される理不尽よりも、凶器の不可解さがユリカには腹立たしかった。
手が届く範囲に何かないか、と狭まった視界を巡らせるが何もない。
見たくなかったが、視線は鹿野の手にしたナイフに吸い寄せられる。
薄明かりに照らされる、磨き上げられた刃。
そこに、女の子の姿が映り込んでいるように見えた。
「――ぅは?」
自分の危機的状況も忘れ、つい間の抜けた声が出てしまった。
何だったのかを確かめようと、目を凝らしてもう一度見ようとした直後。
「×××××××××××××××××××××っ!」
派手な衝突音と聞き取り不能の怒声が、ユリカの頭上で弾ける。
それと同時に、誰かに乗られている圧迫感も消えた。
「前からっ! 一回! お前を! 全力で! ブン殴りたかったん! だよっ!」
ユリカが身を起こすと、一回どころか五回、六回と連続して重たそうな拳を鹿野に突き入れている、息を切らせて汗まみれなドラの姿が見えた。
体格差からして一瞬でKOされそうなものだが、鹿野はフラつきながらも止まらずに、妙な形の武器を振り回している。
「ぐっ」
強烈なミドルキックを脇腹に受けながら、それを無視して鹿野が突き出した刃が、ドラの右頬に長く切り裂く。
「いっいか、げんにしとけ、よっ――くぅおるぁあああっ!」
ドラは怒鳴りながらその腕を掴んで捻り上げ、鹿野の上へと倒れ込む。
ブチブチッとかゴキッとかビチッとか同時に鳴る、生々しい破砕音が響いた。
複数の関節や骨をまとめて壊されたようで、鹿野の右手から変なナイフが取り落とされる。
反撃を警戒したらしいドラは、刃物を遠くに蹴り飛ばして俯せの鹿野から距離をとる。
悲鳴はおろか呻き声も上げない鹿野は、澱んだ目でドラを見据えながら、地面に肘をついて立ち上がろうとしていた。
「い、いかげんに、しろって――」
ドラが息を切らしたまま怒鳴り、綺麗な弧を描いて跳躍する。
「――言ってんだろ、クソボケがっ!」
怒声の残りを吐き出したドラは、全体重の乗ったニードロップを鹿野の背中に炸裂させる。
鹿野は鈍い音を響かせて顔から床に潰れ、周囲に盛大なヒビ割れと血溜まりを広げて、ピクリとも動かなくなった。
十秒か二十秒の放心の後で、ユリカは上半身を起こす。
そして、荒い呼吸をしているドラに訊く。
「たす……かった、の?」
「ああ。おそ、遅くなって、すまん……だけど、もう、もう大丈夫、だっ。警察も……もう、すぐにっ、来る」
ドラが右手を差し出してくるが、立ち上がるのも億劫なので頭を振って断る。
こういうシーンなら本当は、感激して抱きついたりするべきなのだろう。
だがユリカには、そんな気力も体力も残されていなかった。
女優失格かも、と少し反省しながらドラへの質問を続ける。
「よく、ここがわかった、ね」
「本部の、プレハブから……ずっと、血の跡が、続いて……たから」
鹿野が引きずってきたミクが、思いがけない役回りを演じてくれたようだ。
凄惨な光景を目にしすぎたせいか、まだ彼女を悼む感情は湧いてこない。
というか、人生最大級の激痛が自己主張してきて、思考がまともに働かない。
顔を顰めていると、呼吸の落ち着いたらしいドラが気遣わしげに言う。
「怪我してるのか……どこ?」
「肩と、膝と、手の指と、手首と、背中と……とにかく、体中を全部。こういうのも、労災になるのかな……」
「どうだろう。とりあえず、今は色々と考えない方がいい。入院してからなら、いくらでも時間がある」
本気なのか冗談なのかわからないドラの言葉に、ユリカは苦笑すら不発に終わる。
「そういえば……その、ドラの意味わかんない筋肉で、私は助けられちゃったのか」
「まぁな。人生におけるトラブルの殆どは、筋肉で解決できるから」
自信満々に言い放つドラに対し、気の利いたセリフを返そうとするユリカだったが、やっぱり頭が回らず何も思い浮かばない。
「だけど、まぁ――」
そして、自分でも何と言ったかわからない一言を最後に、限界に達した苦痛と疲労がユリカの意識を強奪した。




