太っちょ貴族はお伽話を読む
賑やかな夕食だった。
子どもたちと、グラシエにラティエにサフラン。廃教会ながら、サフランの行いに賛同して通いで勤めにくる修道女が2人。そこにミトロフとカヌレが加われば、食卓を囲む人間は多くなる。
作る料理も豪快なものになり、今日は寸胴鍋で煮込んだシチューである。調理を務めたのはラティエで、カヌレが手伝う形となっていた。
教会のキッチンはすっかり彼女の庭となっており、それは見事な手際で調理をするのだ、とカヌレがミトロフに教えた。
食事を終えれば子どもたちがよく働く。自分のことは自分で、余裕があるなら他人の分まで……そうした独立心と助け合いをしっかりと身につけているらしい。分担して食器洗いや掃除をこなし、幼子の世話までしている。
いつの間に馴染んだのか、カヌレも率先して動いているし、ラティエもグラシエもあちらへこちらへと働きまわる。
客人扱いのミトロフだけがぽつんと椅子にひとり残され、居心地も悪げにきょろきょろと見回している。
なにかを手伝うべきだろうとは分かっていながら、経験がないためにどう動けばいいのかが分からないのだ。
「ミトロフ、じゃまー」
「む、すまん」
片目を前髪で隠した少女がミトロフの肩をちょんちょんとつついた。昼間にミトロフと情報取引をしようとした少女である。
ミトロフが席を立つと、手際良く椅子を持って片付けて行ってしまう。ついに座る場所もなくなった。せめて邪魔だけはすまいと、ミトロフは部屋を出た。
倹約のために獣油の蝋燭を使っているのだろう。廊下は薄暗く、脂の焦げる臭いが鼻についた。
窓は手垢もなくよく磨かれているが、空にかかる月は細く、灯りは心許ない。
子どもたちの声を遠くに聞きながら進んでいけば、礼拝堂に繋がる扉がある。ミトロフが何の気もなしに開くと、聖像の前に跪いて祈りを捧げるサフランが見えた。
大小もさまざまな蝋燭が並んでいるが、点灯されているのはひとつだけである。その一灯に祈るサフランの姿は、声をかけることも憚られるほどに真剣であった。
ミトロフは音を立てぬように扉を閉め、手近な長椅子の端に腰掛けた。椅子はみしみしと苦しげに呻いたが、崩れ落ちずに済んだ。
ミトロフは礼拝堂を見回す。
かつては白亜に美しかったであろう内装は、ひび割れ、雨漏りに汚れ、塗装のはげた箇所のほうが多い。丁寧に掃除が行き届いてはいても、老朽したものばかりはどうしようもない。壁は崩れ、長椅子は朽ち、柱は欠けつつある。
すべてが風化しつつある中で、天井に描かれた絵だけは褪せることなく見事である。
優れた絵画や宗教画には、状態を維持する特別な加工や、魔法が施されるものだ。教会が崩れ落ちたとしても、この天井画は美しいままだろう。
ミトロフはしばらく、首を逸らして惚けたように絵を眺めていた。
「この絵に、心を奪われたのです」
ふと、隣にサフランが座った。ミトロフと同じように絵を見上げる。
「私がこの教会を見つけたとき、窓は割れ、壁は崩れ、中は荒れていました。しかし、そのおかげで陽の光がよく入っていてね。照らされたこの天井画が、実に美しかった。気づけば日が暮れるまで、こうして座って眺めていました」
「絵は不思議だ。心が吸い込まれる」
「そう、吸い込まれる」
ふたりはそこでまた言葉を潜めた。
蝋燭が隙間風に揺れる。陰影が絵画の表情を変える。柔らかな笑みを浮かべている聖人が、ふと酷薄な表情をしているようにも思える。
しんと静まった聖堂の厳かな暗闇の中で、ミトロフは自分の中を見つめ直すような感覚を得る。
頭を空にし、心を凪にし、内省する時間という意味では、風呂に浸かるのもまた同じである。しかし風呂が心身を溶かすように解きほぐすのに対して、教会で絵を見上げる時間は、心を清らかな水で洗い流すような冷たさと、浄化という印象がある。
神を深く信仰していないミトロフであっても、思わず何かを祈りたくなるような気持ちだった。ここは特別な場所である。それが誰に言われずとも分かる。
「この天井画は、このままここにあってほしいな」
ミトロフがそっと呟くと、サフランもまた頷いた。
「……マフィアとの問題を解決する策があると、聞いたが」
ミトロフが横目に見ると、サフランは苦笑していた。
「そうですね、どんな問題にもやりようはある。どんな困難とて、それは必然というものです」
「司祭というのはまるで貴族のように話すのだな」
「おや、権威的でしたか?」
「迂遠だ」
「これは耳が痛いですね。たしかに、私たちは率直さを美徳と心得なければ」
「それも迂遠だ」
「……」
サフランは鼻を鳴らすように笑った。今までの形式ばったお手本のような司祭像ではなく、サフラン自身の性分が現れたような笑い方であった。
「誰にでも、帰るべき場所が必要です。心の拠り所であり、家と呼ぶべき場所が。教会を神の家だと呼びますが、ここはあの子たちの家なのです」
子どもらの明るい笑い声が、扉の向こうからかすかに聞こえていた。
「あの子たちの未来のために、私がしてやれることは少ない。それでもこの家を守ることだけは果たしたい」
「どうして、そこまで献身的になれる?」
ミトロフは率直に訊く。
「自らの子ですら見捨てる親がいる。道端に座る死にかけの幼児を目にもとめない世の中だ。なのにあなたは孤児院を開き、自らの人生を注いでいる。そこまでのことができるのは、あなたが信仰を得たからなのだろうか?」
素直な疑問だった。
貴族としての在り方を学んできたミトロフにとって、物事の判断は営利的なものに寄りがちだ。自分にどれだけの利益があるのか、それを行うことは得なのか、損なのか。
ミトロフから見て、サフランの行いは”損”だ。
子どもらを引き受け、その未来への責任を追い、日々の生活の糧をどうにか工面しなければならない。
日々の悩みは尽きぬだろうし、自分の好き勝手に生きることもできない。
肩にはどれほどの重圧と責務がのしかかっているのか、ミトロフには想像も及ばなかった。
サフランは再び天井画を見上げた。
「どこまでいっても、これは自己満足のためです。私はかつて、罪を犯した。その呵責が心を蝕み、眠ることもできなかった。ある日、朽ちた教会を見つけ、この絵に魅入られた……本当は、私はこの絵が欲しかった」
サフランはミトロフに肩を寄せると、ひっそりと声を潜めた。
「実は、司祭には誰でもなれるのですよ。多くの喜捨をして伏してお願いすれば、教会は杖と服をくださるのです。私は偽りの聖職者なのです」
ミトロフは目を丸くする。サフランは悪戯をした少年のように屈託のない笑みを浮かべていた。
「––––ああ、すっきりした。やはり懺悔というのは効果がありますね。私はそうして司祭となり、さらに喜捨をしてこの廃れた教会の管理権をいただき、こうして絵を眺める毎日を送っているというわけです。どうです、自分勝手極まりないでしょう?」
「なるほど、あなたが自らの利のために行動したことはわかった。だが、絵が手に入ったのなら、それで満足だったんじゃないか?」
サフランはすぐには答えなかった。親に叱られるか褒められるかを思い悩む少年のようにためらいを持て余しながら、小鼻を指で弾いていた。ふと、彼は話しはじめた。
「教会の壁を直していたある夜、夫婦がやってきたのです。彼らは子どもを抱いていた。”烙印の子”でした。今では迷宮の呪いを受けた者、生まれながらに異形を得た者のことを指しますが、古来は”デーモン”に選ばれた子の呼び名でした。今では教会はそうした呼称を否定していますが、信心深い者は今でもそれを信仰しています」
ミトロフは幼いころに学んだ記憶を掘り起こした。神学を学んだとき”デーモン”という存在を知った。この世の底に広がる冥界に囚われた邪悪な者をそう呼ぶのだと。
人の行いが悪に偏るとき、それはデーモンに唆されたのだという。
「夫婦は自らの罪を許してほしいと、我が子の魂を冥界に連れていかないでほしいと、私に跪いて祈りました。そして私の元でどうか”浄火”してほしいというのです」
首を傾げたミトロフに、サフランはああ、と頷いた。
「”浄火”というのは、魂の罪を清めて火焔天に送ることを意味します。デーモンによって魂を地獄に連れ去られる前に、司祭の手によって安らかな世界に送ってほしい、と」
それはつまり、と察したミトロフに、サフランは頷きだけを返した。
「信仰心を持つ人にとって、もっとも恐ろしいのは死後の魂の行方……デーモンの住まう冥界十層の”地獄”に永遠に囚われることなのです」
「……あなたは、本当にあると信じるのか? この地の底に地獄があると。デーモンが住まい、この地上を滅ぼそうとしていると。その神話を」
サフランは目尻を下げ、ミトロフを見返した。
「さあ」
「さあ?」
「私は見たことがないので。我はこの目で見たと言う司教はいますが、まあ、証明はできません。ただ、ないとは言えません。あるとも言えない。だったら、信じる者の心を否定するわけにはいかないでしょう。恐れる心は真実、そこにあるのですから」
ミトロフは背筋に寒気がはしった。
まさか、と思った。
「私は必ず”浄火”をすると請け負い、その子を預かりました。”浄火”はしませんでした。代わりに、私がここで育てることになった」
ミトロフはふう、と安堵の息をついた。
「以来、”浄火”を依頼されて断りきれなかった司祭たちが、ひっそりと私の元に連れてくるようになったのです。彼らの援助を受けながら、この孤児院は経営を続けてきました」
しかし、とサフランは言う。
「”浄火”され、我が子は安らかに眠ったと信じている親がいる。自分たちは捨てられたのだと傷を負った子どもたちがいる。私たちは嘘をつき、孤児を育てる。果たして救いはどこにあるのかと、分からないままです。もしも真実、この地の底に”地獄”があり、デーモンがこの子らの魂を求めているのであれば、”浄火”すべきことこそが正しいのかもしれないとも考えます」
ミトロフは顎の肉を撫でた。かつてはそれこそが世界の理と信じられていた神学も、今では隆盛を失いつつある。人々は理性的になり、世界に整然とした規則を求め始めている。
「あなたの行いが正しいかどうかを、ぼくに判断する権利はない。しかし”地獄”の存在を立証できない限りは、あなたの行いは人道的であると思う」
「その”地獄”があるとしたら?」
サフランの口調はひどく断定的だった。確信を持った発言であるようにすら思える。
サフランは一度、唇を噛んでから、棘の生えた言葉を無理やり押し出すように話し始めた。
「ミトロフさんは、冒険者だ。迷宮に潜っている。では疑問に思いませんでしたか? なぜ深い穴の中に魔物と呼ばれる異形が棲まうのか、際限なく地下へと続いているのか、”昇華”と呼ばれる現象が起きるのか……」
ミトロフは答えに窮した。全てはわからない。わからないまま、ただそういうものだと受け入れていた。
「”異教徒”と呼ばれている存在があります……彼らは、迷宮こそが地獄へ通じる穴だと定義しているのです。魔物を倒すことで力を得た者は”戦士”となり、来るべきデーモンとの終末の戦いに備えているのだ、と」
ミトロフは眉をひそめた。
たしかに迷宮は地下深く続き、その底を誰も見たことがないという。
なぜ異形の魔物が住んでいるのかも、古代人の遺産が見つかるのかも分かっていない。しかしその穴が地獄に通じているとか、終末の戦いだとか、まったく宗教じみた話にしか思えなかった。
しかし、と、思い出される存在がある。
山羊頭の老婆……寒気のする歌声……命の凍えるような寒気……。
ブラン・マンジェはあれを”魔族”と呼んだ。あるいはあれこそが神話に登場する”デーモン”そのものなのかもしれない。だが、アレは魔物だ。迷宮に巣喰う存在でしかなく、地獄から子どもの命を求める悪魔ではない。
「もし、仮にそうだったとしよう」
とミトロフは言う。
「迷宮の底は地獄に繋がっていて、そこには”デーモン”がいる。だが、それがどうしたというんだ? それでもあなたの行いは非難されるべきものじゃないと、ぼくは思う。”浄火”? くだらない」
その時、部屋の向こうで笑い声が大きく響いた。
ミトロフとサフランはその声に顔を向ける。
「あの賑やかさは、あなたの行動の結果だ。いま、あの子たちは笑えている。地面の奥底にいるかどうかも分からない存在より、目の前のこの笑い声こそが、大事なんじゃないか?」
サフランは頷いた。間を置いて、また頷く。
「……たしかに。ええ、たしかにそうだ。いつの間にか私もずいぶんと信心深い人間になっていましたね」
ドタドタと床を走る音。扉が開かれ、子どもたちがどっとなだれ込んでくる。
「せんせぇ! コウがあたしの頭をぶったの!」
「ちげえよ! ちょっとこづいただけじゃんか!」
「サフラン先生、きょう絵本読んでくれる?」
「ちがうよ! 今日はあたしの順番! あたしの絵本を読んでもらうの!」
しんと静まり返っていた暗闇があっという間に賑わった。サフランは苦笑しながら立ち上がる。
「よしよし、分かった。ひとりずつ話を聞こうね」
多くの子どもたちの毎日を守るために父として過ごす日々に、苦労や騒々しさがないわけがない。それでも、ミトロフにはサフランの顔が生き生きとしているように見える。
遅れて、通路から片目を髪で隠した少女がとことこと歩いてくる。騒がしい声に囲まれたサフランを眺めて「むう」と悩むと、ミトロフの方に歩いてきた。
「これ、よんで?」
差し出されたのは絵本である。
「ぼくがか?」
「うん。ミトロフでいいや」
「妥協されるのも複雑な心境だな……」
ミトロフは本を受け取る。少女はミトロフの隣にちょこんと座ると、ずいと顔を寄せてくる。
本を開き、ミトロフはやったこともない読み聞かせに悩みながら、できるだけ落ち着いた声音で文字を読み上げた。ずいぶんと昔に、自分が誰かにそうされていたように。
「むかしむかし、魔剣を探し求める騎士と、騎士を支える聖女がおりました––––」




