太っちょ貴族は男と談義する
大浴場からの帰りがけに、ミトロフはカヌレの泊まる宿へ向かった。カヌレの宿は裏通りにあり、治安は良いものではない。
後ろ暗いところのある人間にも寝る場所は必要で、金さえ払えば誰でも歓迎する宿屋というのはそういう場所に連なっている。
カヌレの性根には何の問題もなくとも、その姿見は魔物と見紛うものである。待遇や環境が悪くとも、目立つ場所にある宿に泊まるよりは気が休まる面もあるらしかった。
すでに何度も訪ねているミトロフは、慣れた態度で入り口を開けた。受付台に座る中年の男がひとり、蝋燭を頼りに小刀で爪の手入れをしていた。訪問客がミトロフだと見ると、顎をしゃくって上を示した。ろくに会話もしたことはないが、顔を覚えてくれたらしい。
ミトロフは会釈をして、階段を上がる。ミトロフの体重のために、一段ごとに悲鳴のような軋みが鳴った。
二階の通路はさらに薄暗く、窓はあるのにすべてに鎧戸が塞がっている。隙間から漏れ出た光が細長い長方形になっており、そのささやかな明るさがかろうじて並んだ扉を照らしていた。
ミトロフが行き着く前に、カヌレが部屋から出てきた。
「ぐ、偶然だな」
「いえ、ミトロフさまだとわかりました」
「……? どうしてだ?」
「足音が」
「あの階段の軋みか。底が抜けやしないかと不安になる」
唇を尖らせたミトロフに、カヌレはくすくすと笑う。
「急に訪ねて申し訳なかった。時間は大丈夫だろうか?」
「はい。なにかございましたか?」
切り出してはみたものの、ミトロフは未だに悩んでいる。
痛めた右腕のために大人しく節制するようにと言いつけられているのに、ひとりで迷宮に行ったとうち開ければ、怒られるに違いない……。
ミトロフは何度か口を開いてはみるものの、どうしても言葉が出ないでいた。
幼いころは母やばあやによく叱られたものだが、ふたりともがいなくなって以来、ミトロフは誰かに謝った記憶がない。怒られるとか、叱られるという経験があまりに少ないために、どう振舞えばいいのかが分からなかった。
「……あ、ぐ、こ、これから、グラシエの様子を見に行こうと思うのだが、カヌレの予定を聞いておきたくてな」
咄嗟に、話題を逸らすような言葉が出てきた。言ってすぐに、ミトロフは自分の意志の弱さを罵った。
「それは良いですね。わたしも時間は空いておりますので、ぜひご一緒に」
快い返事をしたカヌレに、今さらそれは違うのだとも言い出せず、二人は連れ立って階段を降りる。受付の男は目も向けず、爪の削り具合を指で確かめている。
外に出て通りを進みながら、ミトロフは沈黙の気まずさを恐れてカヌレに声をかけた。
「あの宿の居心地は、あまり良くないだろう?」
「たしかに、良いとは言えませんね」
カヌレは苦笑した。
「ですが、どなたも互いに無関心と言いますか、不干渉なので、その点では気楽です」
「騒音だとか、騒ぎはないのか?」
「普段は全く静かなんですよ。本当に住人がいるのかもわからないほどです。ただ、時たま、夜にすごい騒動があったりもしますね。一度、官憲が扉を蹴破って乗り込んだこともあったようです」
「……静かなのは羨ましいが、ぼくは安心して眠れそうにないな。きみは肝が据わっている」
ミトロフは諦めたように首を振った。
「ミトロフさまの宿はギルドと提携しているのでしたよね」
「ああ。おかげで犯罪者はいないだろうが、入れ替わりも激しいし、とにかく騒々しい。先週は上の階で打ち上げをやっていたようでな、すごい喧しさだった。初めての探索がうまくいったのはめでたいが……他の冒険者が怒鳴り込んだらしくて、あとはもう、朝まで喧嘩騒ぎだったよ」
「それは大変でございましたね」
カヌレはくすくすと笑う。
ミトロフは自分の話を他人に聞かせることに慣れていない。カヌレの様子を伺っては見るのだが、もちろん表情は見えない。カヌレが自分の話で笑い、楽しんでくれていることに嬉しさを感じた。同時に、彼女に隠し事をして、それを打ち明けられずにいる自分にひどく罪悪感を覚える。
ふたりは裏路地から大通りに出ると、グラシエが逗留している孤児院を目指して進む。裏通りはあまりに入り組んでおり、慣れない者には迷宮に思える。ミトロフとカヌレも土地勘に乏しいために、遠回りと分かっていても、一度は大通りを経由する必要があった。
見覚えのある通りから裏通りに入り、記憶を頼りに道を曲がっていく。ミトロフが道の選択に悩むたびに、カヌレが正しい道を教えてくれた。ずいぶんと物覚えの良いことだ、とミトロフは感心したほどである。
ようやく孤児院が見えた。低い尖塔があり、老朽しながらも教会の威厳を保っている。
近づいていくと子どもたちの歌声が聞こえてきた。調律のズレたチェンバロが伴奏を務めているが、子どもたちの楽しげな声までが乱れるわけもない。思い思いの歌声で、音階など気にした様子もなく、心のままに歌っているようである。
教会を囲う塀の、壊れかけた門柱の前にひとり、男がしゃがんでいることに、ミトロフは気づいた。門柱に背を預け、口には煙草を咥えている。
ミトロフとカヌレが近づいても、男はどうという反応もしなかった。たゆたう紫煙をぼんやりと眺めている。
「……今日はひとりで来たのか?」
昨日、この教会にやってきた男である。体格の良い獣人に「兄ィ」と呼ばれていたのを、ミトロフは覚えていた。
小柄な男は気怠げにミトロフに視線を向けた。垂れた目尻に、まぶたは厚ぼったい。眠たげな印象を感じさせるのだが、見据えられると一歩下がりたくなるような威厳がある。
「––––おれは、この歌が嫌いでね」
ふう、とため息のように煙を吐き出して、男が言った。
風に運ばれたその煙がミトロフの鼻を撫でた。木が燻るような独特の香りがする。
「貧しき者も救われる、信仰すれば報われる、人には親切にしましょう、神が見守っています……聴いてると飽き飽きしてくる」
「あなたは信仰を持っていないのか」
「いいや、敬虔な信徒さ。金と権力に祈りを捧げてる」
「それは……信仰、なのか?」
ミトロフの戸惑いがちな声に、男は小さく笑った。
「貧しき人々って話を読んだことはあるか? 貧相な初老の書記官と、貧しい若娘が手紙をやりとりするって話だが。明日を生きる金にも悩みながら、互いを思いやる良い話だ。けどな、段々と男は生活が荒れていく。女に入れ込んで借金してまでものを買い与え、自分の破れた靴を買い替える金もなくなり、周りから馬鹿にされ、酒に溺れ……それでも女に金を無心される」
「……そうまでして、なぜ男は金を貸すんだ?」
「他に何もないからさ。金がなくとも心は豊かだって? そんなものは貧者の負け惜しみだろ? 心なんぞ形には見えない、だから物をやる、金を送る。それ以外に心を伝える方法を知らねえんだよ。心が貧しいやつほど目に見えないものに頼る」
「その男と女は、最後はどうなるんだ?」
「男の貧しさに見かねた上司が金をくれるのさ。男は大喜び、これで生活も変わるとな。しかし女は金持ちと結婚しちまう。貧しさから逃れるために愛のない結婚を選ぶ。おしまい。それだけさ」
「……そうか。そういう話もあるだろうな」
救いがない、とはミトロフは思わなかった。貴族にはよくある話だ、という冷めた思考がある。愛する者がいたとしても、家のために決められた相手と共になる。貧しさを嫌うが故に結婚相手を選ぶという人間もいるだろう。
「貧しくとも愛があればいい……そんな”信仰”でふたりがくっついたとしたら、どうなってたと思う? 教養もない貧しいふたりが揃ったってどうにもならない。そのうちに愛が冷めれば、残るのは貧しさだけだ。貧しい人々……金も権力もないってのは、不幸なことだよ」
男は笑い方までも気怠げに、煙草を地面で揉み消した。
「この教会には信仰がある。だが、貧しい。金がない。権力がない。不幸なガキを集めて、不幸な大人が世話してる。だからこうだ」
と、男は座ったまま両手を広げた。
「金と権力を持った奴の気まぐれで、住処を追い出されることになる」
「誰が、どうしてこの教会を買い上げようとしている? そんな……むごいことを」
「”ドン”さ。ドンの考えなんぞ、おれたちは知らないね。やれと言われたからやるだけだ。これも信仰かもしれねえな。ドンの言うことは絶対––––お告げみたいなもんさ」
言って、男は手を胸の前で組んだ。祈りを捧げる敬虔な信徒のように。そのまま眉を上げてミトロフを見上げる。
「”貧しき人々”は自由を得る。だがその自由は砂で出来てる。権力者の思いつきで容易く吹き飛ぶ。そういう歌を作るべきだと思うね」
男は立ち上がると、ミトロフに向かって歩いてきた。
「貧しい大人によろしく言っておいてくれ」
何かを渡すように拳を突き出され、ミトロフは思わず手のひらを差し向けた。そこにぽんと置かれたのは、煙草の吸い殻だった。
「捨てといてくれ」
んじゃ、とすれ違う男の背中を、ミトロフは振り返る。片足を引きずるような歩き方で、男はゆっくりと去っていく。
「……あの方は、何をしたかったのでしょう?」
カヌレは不思議そうに言った。
「文学談義と宗教論、社会への問題提起といったところか」
ミトロフは手に残った吸殻をつまみあげて眺めた。眉を下げ、ミトロフは嘆息する。吸殻を懐に収めて、教会の中へ歩みを進めた。




