太っちょ貴族は悔しさを知る
やはり風呂はいい。どんな悩みがあっても、疲れていても、風呂に入っていればすべては泡沫のように消えていく……のであれば、どれほど良かったか。
ブラン・マンジェに護衛される形で––––あるいはミトロフが剣を取りに行かないかを監視するように––––迷宮を出て、ミトロフは他に行き場も思いつかず、まだ日も高いうちから大浴場へとやってきた。
腕を痛めたことによる退屈を持て余して迷宮に行った。しかし結果は散々である。”魔族”に遭遇して大切な剣を置き去りにし、雷撃を受けた手足も今になって痛み出してきた。
こうして風呂に浸かりながらしみじみと振り返れば、ブラン・マンジェがいなければ自分はあのまま死んでいたかもしれない。
気分が一新するかと期待して大浴場に来てはみたが、ミトロフのわだかまりはお湯に溶け出すでもなく、重苦しい塊のままである。
どれほど湯に浸かっていただろう。のぼせそうになれば縁に腰掛けて上半身を冷ましていたが、何度も繰り返せばどうにも身体は茹だったままである。
ミトロフは湯を出て、水風呂に向かった。目隠しで囲われただけの露天場には、中よりもずっと人は少ない。街の外から水路で引いた水は雪解け水のように冷たく、水風呂に長く浸かる物好きはそうそういない。誰もがさっと水を浴びる程度で中に戻っていく。
そんな中でひとり、巨大な影が水風呂の中心に居座っている。腕を組み、目を閉じている姿はさながら修行のようにも思える。
ミトロフは桶で水を取り、身体の端にそっとかけた。肌も赤くなるほどに暖まっていても、すくむほどに冷たい。それでも何度か繰り返すと冷たさに慣れ、かえって身体の芯が熱を発してきたようである。
ふと、あの山羊頭の老婆のことが思い出された。その想像を払い落とすために、頭から水を被った。ミトロフはぐっと息を詰めて、一思いに肩まで水風呂に入った。
辛いのは最初だけで、すっかり浸かってしまえば不思議と楽になる。
「今日はまた、堂に入った浸かり方だな。水風呂に慣れたようだ」
獣頭の大男は、片目を開いて言った。唇を吊り上げているのは笑っているのに違いないが、見事な牙が見えているので、威嚇する猛獣のようにも見える。
「だいぶ長風呂をした。身体が熱をもってる」
意図せず、ミトロフの返事が愛想ないものになった。
獣頭の大男は片眉をあげた。男が、特に冒険者がそうした態度を取るときは、決まって迷宮で失敗をやった時だと経験から知っていた。
「強敵とでもやったか。怪我はないようだが」
ミトロフはむぐ、と喉を鳴らした。自分の態度がそれほど分かりやすかっただろうかと顔の筋肉を揉む。
情けなさを見抜かれたようで気まずい思いがある。だが自分の中に溜め込んでいたものを解放できる機会ではないかと、口は勝手に開いていた。
「……あなたは、見るからに強者だ。負けたこともないのだろうな」
ミトロフはぼやくように言う。
「ぼくは今日、手ひどく負けた。そのことが、やけに苦しい。ずっと負け続けてきた人生なんだから、これが普通なんだろうが……運よく何度か勝ちを拾って、それで調子に乗っていたのかもしれない」
ミトロフは水面に視線を落とした。陽光が照り返している。やけに眩しい。
獣頭の大男は返事をしない。間に広がる沈黙がやけに重苦しく思えて、ミトロフは考えもせずに言葉を繋いだ。
「ぼくは、ぼくなら勝てるだろうと思っていたのかもしれない。何が出たって、ぼくはやれるぞ、証明できる、ぼくは強い、才能がある、どんな相手とだって……」
言葉はやがて尻すぼみになって、ミトロフは下唇を噛んだ。
ひとり、老人がやってきた。水風呂の縁にしゃがむと、桶で水を掬い、頭から被る。ひゃあ、と叫び、身体をばちばちと叩いて立ち上がると、また戻っていく。背を見送った獣頭の大男は、ぐる、と喉を鳴らした。
「お前は幸運だ」
「……生き残ったからか?」
「そうとも。迷宮の中で負けた人間は死ぬ。後悔も反省もする機会は与えられない。だがお前は水風呂に入り、己の弱さを嘆き、自分の惨めさを眺めて悦に浸ることができる。運が良い」
「ずいぶんな皮肉だ。ぼくが愚かだとでも言うのか」
「お前は畑を見ている」
「なんの話だ?」
「それはお前だけの畑だ。お前以外の誰も手入れはしない。その畑を前に座り込み、なにも収穫がないと嘆いている。そもそも、お前はそこに種を蒔いたか?」
「…………」
「種がなく、世話もせず、実りだけを得ようとしても、そこには何もない。それでもお前は生き残った。幸運だ」
「…………」
「俺に負けたことがないかと訊いたな。あるとも。数えきれぬほど負けた。その数だけ種を蒔いた。だから今もここにいる。幸運の女神を思い通りにはできまい。だが、己の畑を管理することはできる。お前の畑はどうだ?」
獣頭の大男は立ち上がった。波がミトロフを揺らがせた。ざぶざぶと水を割って、男は去っていった。
種を蒔く。ぼくは、種を蒔いただろうか。
ミトロフは水面を見下ろし、首を上げた。空はまだ明るいが端になるにつれて色合いが濃くなっている。夕暮れの気配を感じさせた。
獣頭の大男の体躯にはいくつもの傷があった。何事にも動じない立ち居振る舞いを見ればその実力も予想はつく。
あれほどの強者とて、数えきれないほど負けたのか。
ふと記憶が呼び起こされる。卓越した盾の使い手であるカヌレもまた、兄である銀騎士に一度も勝てたことがないと言っていた。
強い者は、負けている。
その奇妙な仕組みの一端を、ミトロフは垣間見たような気がしている。
負けたと落ち込む自分の姿を空から見下ろせばどうだろう。あまりにちっぽけで、たしかに愚かだ。
負けて当然じゃないか。ぼくは種を蒔いていない。
どこかで受け入れられずにいた気持ちが、すっと染みた。
どうして常に勝てるつもりでいたのだろう。相手は魔物だ。人を超えた存在だ。貴族として育ち、怠惰に過ごし、覚悟も努力もない自分が、ここまで生きてこられたのは、ただ、運が良かったからだ。出会いに恵まれ、助けられてきたからだ。
それをいつの間にか、自分の力だと過信していた。
––––ぼくは、弱い。
それでいい、とミトロフは頷いた。
これまでずっと、その事実を認めずに生きていた。他者と比べれば己の劣っている姿を直視せざるを得ない。だから部屋に篭り、都合の良い言い訳を探し、自分は悪くないのだと言い聞かせていた。
生まれが悪い、環境が悪い、父が悪い、自分を認めないこの世界が悪い……。
「ぼくは運が良い」
生き残った。仲間がいる。反省し、後悔し、やり直すことができる。
ずいぶんと出遅れてしまったな、とミトロフは思う。
それでも、今からでも、種を蒔こうと。そう思うのは、悔しいからだ。
負けたことが、悔しい。
自分の力が届かなかったことが、悔しい。
悔しいと思えることが、その感情が自分の中にまだあったことが、嬉しい。
「ぼくは、強くなる」
自分がどうしたいのか、わからないままに生きていた。しかし今、自分の中にひとつの芯が生まれつつあるのを知った。
ミトロフは勢いよく立ち上がった。
ふと風が吹いて、ミトロフの肌に浮かぶ水滴を残らず撫でていった。急激に寒気が込み上げて、ミトロフは盛大にくしゃみをした。




