太っちょ貴族は逃げ帰る
ミトロフはブラン・マンジェと連れ立って地下6階へ降りた。”守護者の部屋”は5階の最奥部にあり、道を過ぎればすぐに階段がある。降れば休憩場が設置されており、そこには多くの冒険者たちがいる。
全身をローブで包むブラン・マンジェの姿は目立つものだ。彼女の存在を知っている者もいる。
しかしミトロフの姿ばかりを見慣れた冒険者も少なからずいて、彼がいつも連れ立っているカヌレは黒のローブで全身を隠している。
そのローブの色が変わったのかと思う程度で、注目されることもない。そもそも冒険者はあまり干渉的ではない。
二人はできるだけ周囲から離れた場所を選んだ。ミトロフはどっかりと腰を落とし、ブラン・マンジェはたおやかに裾をはらって、ちょこんと膝をついた。
「……まずは礼を言う。命を助けられた。また借りができてしまった」
頭を下げるミトロフに、ブラン・マンジェは首を左右に振った。
「命があってよろしいことでした。あの部屋は今、封鎖されております。しばらく近づかぬほうがいいですよ」
「封鎖というわりには監視も守衛もいなかったが……」
「先ほども言いましたが、人払いの魔法がかかっているのです。術者と関係のないものがいると効果が薄くなるので、意図的に人を置かないようにしていたのですが……ミトロフさんは、なぜあそこに?」
「……歌が、聞こえた」
「歌、ですか?」
「ああ、歌っていただろう?」
ミトロフは当然のように訊ねるが、ブラン・マンジェはどこか戸惑ったようだった。言外の反応を察することはミトロフの得意とするものである。
「……きみには聞こえないのか?」
「歌というのは、聞いたことがありません」
「…………」
幻聴か、とミトロフは自分を疑った。だが今でもこびりついているあの音色は、決して夢や幻ではない。たしかに聞こえていたのだ。だが、ブラン・マンジェは聞いたことがないという。
「待ってくれ、きみはこれまでにもあいつと会ったことがあるのか?」
「”あの”魔族は初見です」
「他の魔族はある、と?」
ブラン・マンジェは肩をすくめて返事とした。言うまでもないことだ、と。
「迷宮には”魔族”が現れるのか。それも、頻繁に?」
「頻繁というほどではありません。ですが、そうですね、いるものですよ、”魔族”くらい」
くらい。”魔族”くらい?
聖書で語られる幻想の存在が、屋根裏に潜むネズミのような扱いである。ミトロフは喉の奥で唸り、腕を組んだ。
「あれは、倒せるのか」
「可能です」
「きみは”魔族”を倒しているのか」
「何度か」
「それが君の役目なのか」
「そうとも言えますが、詳細は秘密です」
ミトロフはブラン・マンジェの腰元に目をやった。今までは気づかなかったのか、そもそも携帯していなかったのか。そこには剣がある。そしてあの炎の刃……。
「きみは強いだろう」
「さあ、どうでしょうか」
「あの力は、魔法剣か、あるいは」
と、思い出されるのは噂話だ。情報屋を名乗る男が語って聞かせた、水晶蜥蜴を両断したという魔剣使いの話。
まさか、とミトロフはブラン・マンジェを見る。
「き、きみが魔剣使いか!」
驚愕と興奮によって、ミトロフの鼻息は荒い。そこには魔剣という伝説に憧れる少年心が含まれている。
しかしブラン・マンジェは至って冷静に、身を乗り出したミトロフから距離を置いて、すんとした声で「なんですか、それは」と答えた。
「いや、噂があってだな……魔剣使いが迷宮にいると……」
「そんなもの年がら年中ありますよ。数十年以上続いているありきたりなものです」
「えっ」
「……そこまで悲しげな表情をしなくとも」
魔剣使いはいないし、魔剣もないということか、とミトロフは肩を落とした。いや、でも、そうだよな、誰だって魔剣に憧れるのだ。そりゃひっきりなしに噂もあるだろう。
「ぼくだって本当はわかっていたさ……でも期待してしまうんだ。男だからな」
「……そうですか」
呆れた声である。
「魔剣は……諦めよう。だが、ぼくの剣は諦められない」
愛剣を部屋に置いてきてしまった今となっては、こちらの方が重要な問題である。思い入れもあるし、武器がなければ迷宮にも潜れない。
「……少々、お待ちください。討伐に成功すれば、お返しできるかと思います」
「きみがまたあれと戦うのか?」
「その予定です。放置しておくとまずいものですので」
「ぼくも協力しよう」
とミトロフは背筋を伸ばした。胸を張った宣言は堂々としたものである。戦いを女性に任せ、自分は安全な場で待っているだけというのは、貴族として培った価値観に反するものである。
「手ぶらで戦うおつもりですか?」
「あっ」
ミトロフの腰には空の鞘だけがある。短剣一本で戦えるわけもなく、ミトロフはいま、無力と言って間違いない。魔物が闊歩する迷宮の中で、武具がないという事実はひどく心細い。
「帰りもお送りいたしましょう」
ミトロフはブラン・マンジェの提案に甘えるしかなかったのである。




