太っちょ貴族は忘れ物をする
老婆と、ミトロフは思う。しかし確証はなかった。
ミトロフが思わずも一歩後ろに下がったのは、その姿があまりに異様であったためである。
背は直角にまで折れ曲がり、右手に鞘に収まった剣を、左手には青い炎の灯るランタンを握っている。色の抜けた白と汚れた黒の混ざり合った長髪はもつれ、地面の上で蛇のようにトグロを巻いていた。
顔のあるべき場所には山羊の頭骨がある。被っているのではなく、顔そのものが山羊の骨であり、眼窩は黒塗りとなっている。
全身は黒い骸布に包まれ、金と銀の装飾具を巻き付けている。見た目ばかりの異様さだけでなく、禍々しい瘴気が漂うかのような、底知れぬ威圧感を感じる。
ミトロフは声を失っていた。
人、と呼ぶにはあまりに異常だった。
しかし魔物と呼ぶには、あまりに”人”に似ていた。
「あなたは、”迷宮の人々”か?」
ミトロフの声は掠れていた。
山羊頭の老婆はなにも答えなかった。わずかに首を横に傾げた。右へ、左へ。カクカクと頭を揺らしながら、暗い眼窩はミトロフを観察するようであった。
過去に経験したこともない異様さと不気味さに、ミトロフはおぞましさを感じる。
カチカチカチ、と音が鳴る。
老婆の爪が剣鞘を弾いている。肉は無く、骨に薄い皮膚を貼り付けただけのその指は、生者の色をしていない。長く伸びた黄色い爪が杖を叩き、ぴたと止まった。
––––歌声。
金属が擦れるように。嵐の夜に雨と空気が砕けるように。獣の筋を撚り合わせた弦が弾かれるように。これまでに聞いたこともなく、あまりにおぞましい––––。
老婆の山羊頭の口が開いている。そこから響く振動は、疑いようもなく音を奏でていた。
理解し得ない異変を前にしたとき、人が示す反応は様々だ。大概はまず拒絶する。魔物の巣窟である迷宮の中で遭遇した異形の存在を前に、ミトロフは判断をしかねていた。
これは敵か、戦うべきか、逃げるべきか。
山羊の頭骨がカタカタと鳴り、その口からは地の底を震わす音楽が響き……こんな存在が味方であるわけもないと、ミトロフは刺突剣を抜いた。身を守る武器を手にすることで、心はいくらか落ち着きを取り戻す。
同時に、次の問題が首をもたげた。
戦って、勝てる相手か? 逃げられるのか?
巨躯ではない。武器も持っていない。鉄剣で打てば倒れそうに心許ない体格をしている。
しかしその禍々しさは、ミトロフに足踏みをさせるのに十分だった。
首を傾げる山羊頭はすでに地面と水平になっていた。真横まで傾げ、反対側にまた傾げ、ゆっくりと正面に立ち戻ったとき、老婆は風を払うように右手の剣鞘を振った。
閃光。
避けられたのは、一瞬で切り替わった意識のためだった。昇華によって強化されたそれは、時に脊椎の反射よりも早く肉体を動かす。野生の獣のように鋭敏な危機への嗅覚を持つ。
右膝をたたむようにしゃがみ込んだ。衝撃と突風が抜けていった。背後で、壁に何かが叩きつけられる音がした。
ぱりぱりと音がする。ミトロフは自分の肩を見た。服が焦げている。棘の鋭い荊のような光が瞬いて消えた。
「––––雷か?」
呆然と呟く。肩が痺れている。老婆を見る。剣を掲げたまま、首を左右に傾けている。
それは魔法か、魔物の使う魔術か、あるいはあの剣の力か。老婆は今、嵐の天に瞬く稲妻を再現して見せた。
ミトロフの思考は冷静に回転する。動揺を押さえ込みながら立ち上がり、身構える。明白なことがひとつ。アレは敵に間違いない。ならば、戦うしかない。
左肩が不意に痙攣した。意思と関係なく動くのは呪いだろうか、とミトロフは考えている。
恐る恐ると拳や腕に何度か力をこめていると、痙攣は治った。かすっただけでも影響が出るのなら、直撃したら死ぬだろう。そうして自分の死を冷静に考える自分に、ミトロフは少しだけ驚く。
そうだ、と。自分は今、死を前にしている。
その恐ろしさを前に震え上がるよりも先に、山羊頭の老婆は再び剣鞘を掲げた。振るうのではなく、ただ頭上に持ち上げただけである。
ミトロフは眉を顰め、瞬時に察した––––落雷。
横っ飛びに転がると同時に、閃光が地面を砕いた。衝撃、光、そして音。受け身も取れずに無様に転がり、しかし蓄えた脂肪のおかげで衝撃は吸収できる。
手をついてすぐさま立ち上がろうとして、右足に力が入らない。見れば膝から先に光の荊が瞬いた。
くそ、と悪態をついて右足を叩く。ばちっ、と手に痺れと痛みが響いて、咄嗟に手を引っ込めた。痙攣する足には力が入らず、そこだけが死体のように脱力していた。
左足だけで立ち上がるが、自分の身体があまりに重い。
痩せておけばよかった、と場違いな感想を抱きながら、ミトロフは刺突剣を杖にして体勢を維持した。
山羊頭の老婆は追撃をしてこない。頭骨を左右に傾けながら、手にした剣を眺めている。それは初めて外出した世界を確かめる赤子のようであったが、異形の風貌に宿った無垢な振る舞いに、ミトロフはおぞましさを感じた。
右足を地面に押し付け、感覚が戻ってきたことを確かめる。杖にしていた剣を構え、深呼吸をして、ミトロフは駆け出した。
老婆は山羊頭の眼窩をミトロフに向ける。黄ばんだ歯列の奥からは軋んだ音が響き続けている。それは声なのか、歌なのか––––剣鞘が揺すられ、ばち、と空中で光が弾ける。光の荊が見えた。
––––どう避ける?
ステップを刻んで左前方に踏み込んだ。荊は不規則な節を刻みながらミトロフに向かい、直前で折れ曲がった。ミトロフの身体を避けた。その手に握った刺突剣に噛み付いた。空気が破裂する音に遅れて、手の中で火が爆ぜたような熱。
精神は剣を握っているべきだと言った。武器を手放すことは死に繋がる。
だが肉体は強固な精神の命令に背いて剣を離した。これまでに経験したことのない衝撃と熱に、握っていることが目先の危険だと判断した。
手元で起きた衝撃波にたたらを踏みながら、ミトロフは自分の手元を見やった。空中に浮かぶ刺突剣には荊が絡みついている。握っていた手の平に広がる枝のような火傷の筋––––雷は熱を持っているのか?
ミトロフは場違いにも新たな発見をした学者のように目を丸くした。
思考に精神が介入し、引き延ばされた一瞬の中で、ミトロフは体勢を整える。
山羊頭の老婆はすぐそこだが、武器を手放している––––いや、銀の騎士より譲り受けた短剣がある。
ミトロフは腰元から短剣を抜いた。
体当たりのように体重をのせて短剣を突く。剣先は黒の襤褸切れに吸い込まれ、そして、腕ごと突き抜けた。
吐息が漏れた。戸惑い、拍子抜け、困惑し、体重をのせた勢いは止まらずに、ミトロフは背筋が凍えるような冷たい膜をすり抜けて、地面に転がった。
受け身を取りながら慌てて起き上がる。振り返る。襤褸の外套が揺れている。身体があるはずの場所にはなにも入っていないのだ。
青白い灯りを揺らしながら、山羊頭の老婆は振り返る。頭骨が右に傾きながら、じっとりとした視線を向けられているのを、ミトロフは感じる。
「これは……面白い。いや、面白がってる場合ではないんだが」
昇華によって精神力が強化されて以来、自分の思考が分裂したように感じることがある。ひどく動揺している自分と、冷静に現実を分析している自分。どちらもが自分ではあるが、どちらが本当の自分か悩むような奇妙な感覚。
これまでの迷宮で出会ってきた魔物とはまるで別の異形の存在。攻撃も通用しない。そのことに怯え、泣き叫び、今すぐにでも逃げ出そうと考える自分がいる。
––––身体がないのに形取っている存在。ならばおそらくは魔法という原理で成り立っている。あれは”魔法使い”に分類されるはずだ。雷を象った魔法を使う魔物だ。身体がダメなら、あの頭骨はどうだ? 見るからに狙いやすいぞ––––
その自分を押さえ込み、感情を切り離し、目の間の異形を分析する自分は、果たして昇華によって得られた”強いミトロフ”なのか?
分からない。だが生き残るためにはその思考が必要だ。
ミトロフはゆっくりと呼吸を繰り返し、喚き立てる自分を心の奥に押し込んだ。一瞬、目を扉に送る。左側にある。一目散に走っても、山羊頭の放つ雷の方が速かろう……。
立ち向かうしかない。この短剣で? 武器があるだけまだマシだ。
ミトロフはあまりに頼りない一本の短剣を手に身構えた。まずは雷撃を避けねばなるまい。それも、完璧に。かするだけで手足は痺れる。
できるのか? と自分が訊ねる。
できなきゃ死ぬだけだ。と自分が答えた。
山羊頭が震え、その歌がひときわに大きく響いた。干涸びた指で握りしめた剣を杖のように掲げた。
ミトロフが身構えた瞬間、横合いから山羊頭に炎の刃が襲いかかった。山羊頭は鞘を掲げるようにして生み出した雷をぶつけて相殺すると、首をカタカタと震わせた。
闇の中で人影が走る。真っ直ぐにミトロフに駆け寄るとその手を掴み、ミトロフの呼びかけを全く無視して引っ張った。思いもかけず強い力に、ミトロフは転けるのを必死で堪えるためのように足を出し、そのまま走る。
背後で空気が破裂する音。
「雷がくる!」
「ご心配なく」
ミトロフの叫びに、手を引いて走る人影––––ブラン・マンジェは振り返った。ミトロフの腕をぐんと引っ張って立ち位置を入れ替える。ミトロフはつんのめるような形で扉を抜ける。
ブラン・マンジェは背から倒れるように中空を仰いだ。生じた雷が荊を広げるその光景に、手にした剣を振るった。
生まれた魔力の炎は雷と絡み合う。
炎の壁を突き抜けた雷がブラン・マンジェの剣に絡み付いたが、ブラン・マンジェは堪えた悲鳴を漏らしただけだった。倒れ込む寸前に転回し、ミトロフの背に続いて扉を出た。
「扉を!」
ブラン・マンジェの指示に、起き上がっていたミトロフが扉に手をかけ、渾身の力で閉じた。
「……とりあえず閉めたが、意味はあるのか?」
「”守護者の部屋”は牢獄のようなものです。閉じてしまえば出てこられません」
ブラン・マンジェの声に、ミトロフは息を吐いた。扉に背をあずけ、ずり下がるように座り込んだ。
目の前には若草色のローブに全身を包んだブラン・マンジェがいる。手が隠されているために、長い裾から細身の剣が飛び出して見える。その裾先は黒く焦げて煙を上げていた。
「助かった。ありがとう。その、腕は大丈夫か?」
「……はい、問題なく」
ブラン・マンジェは剣をローブの陰に隠すようにあった鞘に収めると、しゃがみこんでミトロフと視線の高さを合わせた。
「ミトロフさんこそ、ご無事ですね? お怪我は?」
「掠ったくらいだ。アレは、何なんだ? 魔物か? 守護者?」
「人払いの魔力場を張ったはずなんですが、あなたはどうやってここに」
「魔力場? 知らないが、ここに来たのは何か嫌な気配を感じたからだ。で、アレは?」
ブラン・マンジェは悩ましげに唸ったが、やがて諦めたように首を振った。
「あれは”守護者”ではありません。古の災い、憂いと苦患を宿す者––––”デーモン”……あるいは”魔族”と呼ばれる存在です」
「そうか、魔族か」
ミトロフはすっかり頷いた。戸惑ったのはブラン・マンジェの方である。
「……あの、信用なさるのですか? ”魔族”ですよ?」
「宗教学で習ったな。地獄に住まうとされる住人たちだろう? 人間を堕落させる悪の顕在、神の敵……迷宮にはよくいるのか?」
「いえ、よくはいないのですが……」
と、ブラン・マンジェは言葉に詰まった。
普通であれば鼻で嗤うなり、もっとまともなことを言えと怒鳴るような話なのであるが、ミトロフの世間知らずが功を奏した。知識はあっても、迷宮の常識、世間の常識から縁の遠い部分がある。
ゆえに「迷宮には”魔族”がいる」と聞かされても、そういうものだったのか、と受け入れる柔軟さに繋がっている。
「どんな呼び名にしろ、アレは恐ろしいものだった」
背を預けた扉越しに、ミトロフは恐怖を思い出している。異形さ、生命の希薄さと異常な存在感。
「この世の理から外れた存在なのだと言われた方が納得ができる。ああ、いや、それより」
とミトロフは立ち上がり、硬く閉ざされた”守護者の部屋”と、ブラン・マンジェの顔を交互に見比べた。
「……ぼくの剣が、中に置きっぱなしなんだが」
ブラン・マンジェはきょとんと目を丸くすると、呆れた様子でため息をついた。首を左右に振って、
「諦めなさい」
と、幼子に言い聞かせるように言った。




