太っちょ貴族はそれを見つける
朝起きると、ミトロフは腕の調子を確かめた。右腕の筋を痛めていたために迷宮探索を休止していたが、既に痛みはない。これならば迷宮に行っても問題はないのでは、と考えた。
身体を休めるという意味で、休日は良いものである。ミトロフの身体からは疲れも抜けている。
しかし心が休まるかと言えば別の問題だ。心に移りゆく由無し事を書き留めるよりも、魔物と戦うことに専心しているほうが休まるということもあるらしい。
ミトロフは迷宮探索用の作業着に着替えると、左腕に革のガントレットを着け、刺突剣を剣帯に留めた。ブーツの紐を丁寧に結びながら、カヌレを誘うべきかと考えた。
医者には一週間はおとなしくするようにと言われている。
カヌレもそれを支持しているし、彼女は生真面目な性格だ。心配してくれている。ミトロフがもう治ったと言っても、医者の言葉を優先するだろう。
「……少しだけ、身体を動かすだけだ」
虚空に言い訳をするように呟いて、ミトロフは部屋を出た。
深くまで潜るつもりはない。ごく浅い階層を歩いて回る。戦闘も無理はしない。腕の調子を確かめる訓練だ。だったら、カヌレに了承を得る必要もあるまい。
言い訳を並べてみると、自分の行為は悪くないように思えてくる。そうだ、誰にだって運動をする権利はある。ぼくには痩せるための運動も必要だしな、と。
ギルドに向かえば、行き交うのは冒険者ばかりである。そこに自分も所属しているという意識が、ミトロフをほっとさせた。自分の寄る辺はここであるという安心感を覚えている。
迷宮に入るための手続きにカウンターを探せば、いつもの受付嬢がいる。大きな丸眼鏡を鼻先にずらしたまま、受付嬢はミトロフに笑みを浮かべた。
「ミトロフさん、今日はおひとりですか?」
「ああ、浅い階層を歩いてみるつもりなんだ。運動に。あと、腕の調子を確かめようと思って」
知らず、聞かれてもいないのに言い訳じみてしまうのは、カヌレに対するちょっとした罪悪感があるからかもしれなかった。
受付嬢は「はあ」と曖昧な笑みで答えて、ミトロフから冒険者カードを受け取った。
迷宮に入る冒険者は、必ずここで手続きを行う。
誰が、何人で、何のために、どの階層に向かうのか。そうしたことを記録している。
「おかえりはどの程度にしましょうか」
「昼過ぎには戻ると思う。腹が減るから」
「かしこまりました」
受付嬢はさらさらと書類に書き込む。
「いつも帰りの時間を聞かれるが、過ぎたらどうなるんだ?」
「24時間が過ぎてもお戻りにならない場合は、捜索隊を派遣することになっています」
「それは、親切なことだな」
「ええ、まあ」
と、受付嬢は苦笑した。含みのある言葉の濁し方にミトロフが首を傾げると、受付嬢は眉を下げて答える。
「迷宮での未帰還ということは、ほとんど亡くなっているということですから。たいていは遺体か、身柄を特定できるものを探すということになります。それでも時には、怪我をしたまま動けないでいる方もいらっしゃいますから」
「そうか……そうだな。迷宮で動けなくなれば、命は長くはないか」
「運よく他の冒険者さんや、”迷宮の人々”が見つけてくださればいいのですけれど」
「”迷宮の人々”が助けてくれるのか?」
「あまり公にはされていないのですが、冒険者を助けていただいているんですよ。ええと、暗黙の了解と言いますか」
あやふやな言い方になるのは、大人の事情が絡んでいる、ということらしい。
ブラン・マンジェは冒険者を助けているのか、とミトロフは考える。彼女自身、なにを考え、どんな目的があるのか、ミトロフには判然としない。しかし悪い人間ではない、という気がしている。クエストの対価に”アンバール”をもらった恩もある。
もう少しちゃんと話を聞いてみるべきかな、と悩みながら、受付嬢からカードを受け取り、迷宮に潜る。
薄暗い迷宮の中をひとりで歩きながら、ミトロフは新鮮な気持ちを感じていた。
思えばこうしてひとりで進むのは、初めて来て以来のことだった。命の危機を救われて、グラシエとパーティーを組んだ。カヌレを加えて三人となり、グラシエが里に戻ってからはカヌレとふたりになった。
グラシエが戻ってきたいま、孤児院の問題さえ片付けば、また三人でここを歩くと思っていた。それが自然な形である、と。
しかしグラシエの姉であるラティエが心配する通り、迷宮とは危険な場所だ。
ミトロフは他に生きる糧を稼ぐ術を持たない。カヌレは迷宮の中に呪いを解く手がかりを求めている。だが、グラシエにはもう、迷宮で危険を冒す理由がない。
グラシエのために、ミトロフは貴族の蒐集家と交渉をした。ふたりで見つけた貴重な迷宮の遺物と交換で得た薬の材料を、そのままグラシエに渡した。
グラシエはミトロフに借りがあると思っている。では、その借りを返してもらうまでは、一緒に冒険をしようという話運びになるのだろうか。
歩きながら考え、魔物と出会えば思考は平静となる。
時折に出くわす魔物を危うげなく倒していく。かつてはあれほどに怯え、肩に力をこめて必死に戦っていた相手であっても、今となっては落ち着いて対処できる相手である。そこに自分の成長と、時間の流れを感じた。
迷宮を歩いていると、他の冒険者とすれ違う。初心者らしいパーティーが疲れ果てた顔で帰ってくる。火守りの男が、壁に掛かったランタンに油を継ぎ足して回っている。
迷宮の中ではなにかもが単純化されている。
魔物を倒し、歩き、帰る。それだけでいい。
それがミトロフにとっては気楽だった。
ミトロフは階段を降りる。ひとりで魔物と戦っていく。まだいける、まだ大丈夫だ……まだ、まだ、と足を延ばすうちに、ミトロフは地下5階の奥まで進んでいた。
階下に繋がる階段に向かう道と”守護者”の部屋に繋がる道との分岐に立ち、ミトロフは折り返すべきかと悩んでいた。よく身体を動かし、気晴らしのようにもなった。
地下6階からは第二層となる。敵の手強さも増し、ひとりで進むには不安が残る。
ミトロフの右腕もまた肘のあたりが熱を持っているようで、ぴりぴりとした痛みの前兆を感じさせた。無理をして痛めては馬鹿らしい。
ミトロフはここで戻ろうと決めた。
しかしふと、”守護者”の部屋に繋がる通路に気が取られた。
迷宮には不思議な規則があり、そのひとつが5階ごとに存在する”守護者”と呼ばれる強力な魔物である。”守護者”を倒さずとも階下には進める形式上、冒険者にとっては力試しと箔付けの様相となっている。
5階の”守護者”は、”緋熊”と呼ばれる巨体の熊であるらしい。ミトロフはその右腕だけを目にしたことがある。
ミトロフが死闘を繰り広げた”赤目のトロル”––––魔物でありながら”昇華”を得た変異体とも呼ばれる魔物が”緋熊”を討ち倒し、その右腕を武器として振るったのである。
”赤目のトロル”はその右腕の爪を叩きつけることで守護者の部屋の床を掘り進め、ついには穴を開けてしまった。それほどに”緋熊”の爪は鋭く、強靭であった。
ギルドは早急に穴を塞いだ。しかし奇妙なことに、それ以来、”緋熊”が現れなくなったという話を、ミトロフは耳にしていた。
ギルドは原因の究明と称して部屋を閉鎖しているが、そもそもなにも分かっていない迷宮のことだ、調べたって分かるもんか––––冒険者たちはそう言って笑っている。力自慢の物好きくらいしか用のない”守護者”の一匹が気まぐれに姿を消したとしても、大勢の冒険者の生活にはなにも影響がない証である。
ミトロフの前にある通路には、その噂の証のように、立ち入り禁止を示す立て札が設けられていた。
”守護者”がいなくなった部屋に用があるものはいない。まあ、いたとしても行くつもりはないのだが……と。
ミトロフは目を細めた。丸っこい耳をぴくぴくと動かし、それが幻聴ではないのか確かめるために呼吸を止めた。
「––––歌、か?」
通路の奥から微かに残響している。冬の季節に木戸の隙間風がそう聞こえることがあるように、不明瞭で不安定で、しかし旋律になっている。
気のせい、だろうか。だがやけに気になるのはなぜだろう、とミトロフはうなじに手を当てた。襟足から襟首の間がぴりぴりと痺れる。
勘、というものを、ミトロフはあまり信じていない。
悪いことは唐突に起きるものだし、良いことはそうそう起きないものだ。それを事前に察知するというのは偶然でしかない。一日に百回でも、悪い予感がする、と言っておけば、そのうちに当たるものだ。
だが今ばかりは奇妙なほどの実感を持って、”悪い予感”が後ろ首を撫でている。
いや、気にするまい、とミトロフは首を横に振った。
なにもいないはずの部屋から歌が聞こえるなど、酔っ払いの戯言のようだ。
来た道を引き返して数歩を歩き、そこで立ち止まった。
「……確かめにいくだけだ。どうせなにもいない」
それは立入禁止区域に入ることへの罪悪感ではなく、自分へ言い聞かせるものだ。
ミトロフは足早に”守護者”の部屋へ向かう通路に足を進めた。右手は柄に添えたまま、闇の中に誰かが潜んでいないか、静かに確かめる。
火守りもここには入らないらしい。壁掛けのランタンに火は入っていない。どんどん暗闇が深くなり、ミトロフは足を止め、背荷物から持ち歩き用のランタンを取り出し、明かりを灯した。
眼前に掲げながら進んでいくほどに、幻聴ではなかったと分かる。今ではもう、はっきりと歌が聞こえていた。
とある海にはセイレーンと呼ばれる精霊がいるという。人魚とも称される女性の姿をしたセイレーンは、美しい歌声で船乗りたちを惑わせる。
しかし今、ミトロフが耳にしているのは、聞くに耐えない歌声だった。旋律は不調子で音量の安定もなく、金属が擦れ合うような不快な響きをしている。耳から入り込んだそれはミトロフの背中に氷の棘を流し込むようで、どうしてか寒気が込み上げている。それでも、これは歌なのだ。
通路の先にはささやかな広間と、無骨な両開きの扉があった。人の気配はなく、まるで廃墟のように忘れ去られた空気に満ちている。
ここで引き返して、ギルドに報告をするのが正しい判断だろうかと考えながらも、それでも扉に手を当ててしまったのは、ひとつの好奇心に唆されたからと言える。
扉の向こうに何かが、あるいは誰かがいる。それがいったい何なのか……怖いもの見たさがミトロフを突き動かしている。
扉を押した。見た目は重たげな石の扉のように思えるが、体重を預けるようにして押し進めば、ざりざりと地面を擦りながら隙間ができた。歌声がぴたりと止まった。
ミトロフも一度、動きを止めた。わずかな迷いの後に扉をさらに押し込み、ランタンを差し込みながら室内を覗いた。
光も差し込まない守護者の広間には静けさと暗闇だけが満ちていた。
ミトロフの首から背筋までがぴりぴりと痺れている。何かがいる、そんな気がした。
戻るべきだ、と平静な精神が伝えている。それでもミトロフは中に進んでいく。
ランタンを掲げ、その場でぐるりと回る。周囲を観察するための動作は、身に染み付いたダンスのステップのように滑らかだった。
部屋を照らすにはあまりにか弱いランタンでは、守護者の広間を全体を確かめることも難しい。
ミトロフは動きを止めた。何かが動く物音がしないかと、息を潜めた。頬に汗がひとしずく、流れ落ちる。
歌声は消えている。なにもいない。ふう、と息を吐く。
「直感というのもあまり当てにならないか」
帰ろうと踵を返して、ミトロフは肩を跳ね上げた。
誰もいなかったはずの場所に異形の老婆が立っていた。




