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【書籍化】太っちょ貴族は迷宮でワルツを踊る  作者: 風見鶏
第三章

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太っちょ貴族は整う



「元気そうでよかった」


 銭湯でひとり、蒸気を眺めてぼやく。

 グラシエと再会できたことが、懐に抱えた火石のように温もりを保っている。しかし、考えるべきことに迫られる出来事も生まれている。


 姉であるラティエに、グラシエを迷宮に連れて行かないでくれと懇願されたことで気付かされたことがある。では言う通りにしようと即決できるわけもなく、かと言ってグラシエを大切に思う姉の気持ちを蔑ろにすることもできない。


 容易に答えは出ないが、問題のまま置いておくことはできない。どこかで腰を据え、腕を組み、白紙を前に解答を導き出すための時間をとるべきだとわかっている。


 ミトロフは濁り湯に肩までを浸し、深く息を吐いた。


 ほんの数ヶ月前まで、ミトロフは引きこもりに等しい怠惰な生活を送っていた。用意された飯を食い、清潔なベッドに寝転がり、退屈になれば本を読む。晴れた日には芝生に寝転んで昼寝をする。


 毎日が祝日のようであったが、際限なく繰り返される日々はただ退屈になる。意思決定せず、思い悩むこともなく、ぬるま湯に揺蕩うような思考だったあの頃を懐かしく思い出している。


 もっと刺激を、もっとやりがいを、もっと生きた心地を。その欲求を持っていた。冒険者生活を始めた今、刺激的な毎日に退屈することがない。冷めた鉄に火が入るように、ミトロフの内面は緩やかに赤々と熱を抱いている。


 それは素晴らしいことだろう、とミトロフは思う。あのころの寒々とした空っぽの感情を取り戻したいとは思っていない。


 だが、出すべき答えの正しさもわからずに胸に蟠りが刺さったままでいれば、そこから逃げ出したいという気持ちも芽生えるというものである。


「……ぼくにどうしろと言うんだ」


 後頭部までをお湯に浸し、ミトロフは目を細める。今日の湯は少し熱いな、とひとりぼやいた。


 手足がぴりぴりと痺れるような湯の熱に、頭の中まで茹だっているようで、考えはとっ散らかってまとまらない。

 教会の子どもたち、グラシエの笑顔、妹の身を案ずるラティエの請願、教会の天井に描かれた神聖な絵画……浮かんでは消えていく光景を湯煙の中に眺めている。


「釜茹でになるつもりか?」

「……うん?」


 ふっと意識が戻ってようやく、自分がいつの間にか朦朧としていたことに気付かされた。

 筋骨逞しい男がミトロフを見下ろしている。鼻筋も勇ましい獣頭は、ミトロフも馴染みである。


 ともすれば恐ろしげなその顔に呆れを浮かばせながら、獣頭の男はざぶっと片手を差し込み、ミトロフの腕を掴んで軽々と引き上げた。


「源泉の熱湯を調節するための水管の調子が悪いらしい。今日は長湯をするには熱すぎる。……もう遅いか」

「……なんだって? ぼくは茹で豚じゃない」

「全身が真っ赤だぞ。しっかり茹で上がっているとも」


 獣頭の男はやれやれと首を振ると、ミトロフを小脇に抱えた。冬に暖を取るための焼き石のように、ミトロフの身体は熱を放っている。


 周囲の常連たちから駆けられる声や野次、笑い声に手を振って返しながら、獣頭の男は端にある長方形の浴槽に向かった。滝湯のように流れ落ち、絶え間なく水飛沫をあげているそこに、ミトロフを放り込む。


 どぽん、と盛大に水が跳ねた。

 放り込まれたミトロフは一瞬で意識が覚醒し、慌てて身体を起こす。


「冷たい!」

「水風呂だ。しばらく浸かっておけ」


 ミトロフは全身を氷で叩かれたのと思った。滑らかな石を組んで作られた浴槽に溜まった水は見事に透明で、タイルで描かれた底の飾り模様までよく見える。


 身体中が刺されるような冷たさに背筋がぞくぞくとする。這い出ようとするが、そのたびに獣頭の男に片手で押し戻された。

 じゃばじゃばと暴れているうちに、ミトロフはふと、その冷たさに慣れていた。


「……う、む?」


 それどころか、不思議と全身からすっと熱と力が抜けていく。まるで皮膚が水の中に溶けてしまったような奇妙な感覚だった。


「これは……す、すごいな……」

「そうだろう。よく熱した身体をこの水風呂で冷やす……これが、大人の嗜みだ。お前にはまだ早いかとも思ったが、この魅力がわかるなら一人前だな」

「たしかに、水風呂に入った瞬間はぼくも死ぬかと思った……これを耐えられるのは、大人だけかもしれない……」

「そうだとも。何事も喜びというのは忍耐の先にある」


 言って、獣頭の男は平然と水風呂に入って腰をおろした。熱い湯でのぼせるほど身体を温めたミトロフですら悲鳴をあげるほどの冷たさだというのに、男は眉ひとつ動かさない。

 ミトロフは、これが本物の男というものかと目を輝かせた。


 そのまま並び、水風呂を味わう。全身の隅々までが冷やされている。それでいて体内にはたしかな熱がこもっていて、その境目がどこかも分からない不思議な心地よさを味わった。


「出るぞ」


 と、獣頭の男が立ち上がる。

 ミトロフも従って立つと、男の背を追う形で、浴場の端に向かった。


 浴場は広く、いまだにミトロフの知らない場所も多い。獣頭の男が向かった先には、外に通じる扉が開かれていた。そのまま外に出ると、そこは露天になっている。

 足元は浴場と同じように滑らかな石のタイルが繋がり、周囲からの視線を遮るように、木の板塀で囲まれていた。

 頭上には桟が組まれ、緑の蔦と葉が絡んでいることで、ちょっとした日除けと雨宿りの役目は果たせそうである。


「椅子が並んでいるが、休憩のための場所か?」

「水風呂で身体を引き締めたあとは、ここで心を解きほぐすのだ。外気浴は心身を整える」


 獣頭の男はふたつ並びに空いている木製のカウチを見つけると、そこに腰を下ろした。足を伸ばして寝そべり、腹の上で腕を組むと、そのまま目を閉じてしまう。


 等間隔に並んだカウチは大小様々で、ここにあるものは巨躯の獣人客のために一際大きく、かつ頑丈に作られているものであるようだった。ミトロフも隣に座ってみるが、まるでベッドに寝転ぶような感覚だった。


「……これは、どう楽しむものなんだ?」

「考えるな。感じろ」


 簡潔な返事に、ミトロフは戸惑う。とりあえず、獣頭の男の真似をして足を伸ばし、ぽっちゃりと膨らんだ腹の上で手を組んでみた。


 なにをするんだここで、と疑念を抱きながらも目を閉じる。視界を閉じると、音がよく聞こえる。


 浴場の方では絶えず水音が聞こえる。洗面用の木桶が転がり、男たちの笑い声の反響、駆け回る子どもを叱る父。人々の生活を感じる。


 やがて意識は自分の身体に向かう。水風呂で冷えた肌に熱が戻ってきている。身体の中心に一本の軸があって、そこに赤い熱が溜まっているようである。


 さああ、と風が吹いた。頭上の葉がこすれて鳴り、夜の気配を含んだ目に見えぬ風が肌を撫でて通り過ぎていく瞬間の、その爽やかなこと!


 熱した身体と、冷えた肌と、そこに吹き付ける風と。


 ミトロフは背筋がぞくぞくした。首筋からこめかみまでが痺れるような解放感があった。悩みやストレス、未来への不安と過去への後悔。日ごろに抱えている問題の全てが、いっぺんに解き放たれたようだった。


「分かるか」


 と獣頭の男は訊いた。


「分かる……」


 とミトロフは答えた。


「感じているか」


 と獣頭の男は訊いた。


「感じている……」


 とミトロフは答えた。


「これが、”整う”ということだ」


 そうなのか、とミトロフは感嘆した。

 風呂というのが、ここまで奥深いものだったとは。


 湯に浸かるだけではなかった。熱した身体を水で冷まし、風を感じる。そのとき、人は内省する。散らかった部屋を片付けるように、乱れた思考と心が整理されるようである。


「風呂は、素晴らしいな」

「そうだとも。風呂とは哲学だ」


 獣頭の男が言っている意味はよく分からなかったが、ミトロフはとりあえず頷いて賛同しておいた。細かいことが気にならないほど、今のミトロフの心には大きな余裕が生まれていた。


 ”整う”……なんて素晴らしい!



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― 新着の感想 ―
[一言] 全く違う「整う」がここにはある。 うん、これじゃない。
[一言] そうか、良い風呂(1126)の日か! 今年に入って水風呂に浸かれるようになったのですごくよく分かる
[良い点] 個人的には温冷三週がちょうど良いです(・∀・)ノ
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