太っちょ貴族は責任を知る
ラティエの言葉に、ミトロフは目を見開いた。心臓が鼓動を早めている。
「……ぼくは、グラシエに強制はしない」
「あなたがそのような方ではないと、私も知っています。グラシエはいつも、あなたを褒めていますから……だからこそ、あの子は”あなたのため”に、迷宮に行くでしょう。借りがあるからと理由をつけて」
「そして迷宮で死ぬかもしれない、と。あなたはそれが心配なのか」
「大切な妹です。危険から遠くにあって、健やかに暮らしてほしい……そう願うのは当然です」
ラティエの線は細く、目元は柔らかい。しかしグラシエを思う気持ちと、守るための言葉には、ミトロフが容易に反論できぬ強さがあった。
「グラシエを助けていただいたこと、感謝にたえません。村を救う手助けをしていただいたこと、私からも伏して礼を申します。––––私に、あなたに尽くさせて頂けませんか? あの子の代わりに」
だからグラシエを自由に……音として響かなくとも、そこに含まれた意味をミトロフは受け取った。
––––ぼくは、責任を負っていた。
ミトロフはぞっとするような寒気を背中に感じていた。
グラシエを助けたとき、ミトロフは深く考えていなかった。ただ、困っている彼女の助けになりたい。自分にできることをしたい。そうした気持ちだった。
人を助けること……その意味を、正確に理解できていなかった。
ミトロフはグラシエを助けた。そのことを貸し借りだとは思っていない。金銭のやり取りのように取り立てるつもりもない。
しかしグラシエはどうであろう。
彼女は生真面目な性格だ。ミトロフが気にしなくとも、彼女は気にする。
ミトロフがいらぬと言っても、彼女は納得しない。
与えられたままでは、対等では無いからだ。グラシエはその気高さゆえに、ミトロフに同じだけのものを返すまでは納得できない。
だから、彼女は迷宮に行く。
初めは里を守るために。
今はミトロフへの借りを返すために。
グラシエが迷宮に挑む理由は、ミトロフがそこにいるからでしかない。
そして、もし迷宮で彼女が命を落とすようなことになれば、その責任もまたミトロフにある。
ミトロフがグラシエを助けたことで、グラシエにはまた別の鎖が巻きついてしまった。その鎖は迷宮に繋がっている。それを解き放ちたいと、ラティエは言っているのだ。
グラシエの命を守るために。彼女を慕う子どもたちの心を守るために。
そのためになら、自分を犠牲にしても構わないと、その覚悟をしている。
見かけのたおやかさの中に、巨大な鉄のような意志を秘めた女性を前にして、ミトロフは言葉を持っていなかった。
「おや、二人して仲良く密談かの?」
子どもたちを引き連れてグラシエが戻ってきた。
揶揄うような口振りに、ミトロフは苦笑を浮かべた。
「ラティエ殿から話を聞いていたところだ。ずいぶんとぼくのことを褒めてくれていたらしいな」
「……姉上、なにを話したのじゃ」
目を細めて訊ねるグラシエに、ラティエはくすりと微笑んだ。
「あなたがいつも話してくれていたことですよ。ミトロフさんは頼りになる良いお人だ、と」
「違うぞミトロフ。姉上は話を大きくする悪癖があるでな。勘違いするでないぞ」
途端にグラシエは早口になる。
「ああ、分かっているとも」
「本当に分かっておるのか? もちろんお主のことは認めておるが、そこに別段の深い意味があるわけではないからの」
「あ、鬼婆がほっぺた赤くしてら」
ただ見たままを指摘するようにコウが言った。
グラシエは勢いよくコウに顔を向け、目尻をキッと吊り上げた。その頬はたしかにほのかに色づいているようにも見えた。
「いま駆け回ったからじゃ!」
「いい歳して照れんなよ、ガキじゃあるまいし」
そっぽを抜きながらコウが笑う。
「コウ、それはまずいよ……あっ」
忠告したカイは、グラシエの表情を見るなりそそくさと離れた。
「われを挑発するとは、よほど走り足りぬようじゃな」
「……やっべ」
「ほれ、逃げてみい!」
駆け出したコウを追い立てるように、グラシエはまた走り出した。子どもたちはそれに参加するものと、疲れて椅子で舟を漕ぐものと、食卓に残る食事に手を伸ばす者とに分かれる。
騒がしく、それでいて穏やかな空気がある。庭を走るグラシエには、迷宮で見慣れた張り詰めた緊張感はない。
あれがグラシエ本来の気性なのだろう、とミトロフは思う。
であれば、貸し借りや助け合いというもっともらしい言葉で、そこからグラシエを引き剥がすことになる自分の存在は、彼女のためになるのだろうか。自分ですら判別に悩むものがある。
ミトロフは襟首からナプキンを取ると綺麗にたたみ、懐におさめた。
サフランと修道女たちが、すでに寝入りかけている子どもを抱き上げ、食事の片付けに入っている。
動き出した者たちの音で、ラティエは状況を察した。
「お話の途中ですが、申し訳ありません。私も勤めがありますので」
「夕飯まで馳走になってしまったな。ぼくらはそろそろ席をあけよう」
「また機会を改めてお話しできれば嬉しく思います」
深々と一礼して、ラティエは教会の中に戻っていった。
目が見えずとも慣れた場所ならば誰に手を引かれるでもなく歩けるのを、ミトロフは知っている。
走り回っていた子どもらも、サフランに声をかけられて片付けを手伝い始めた。
ここにはここの暮らしがあり、彼らは彼らの規則がある。その輪の中にいるグラシエは、すっかり馴染んでいるように見えた。
ミトロフは懐に手を入れて財布から銀貨を探ると、グラスの下に挟んだ。
サフランたちは今夜、ミトロフとカヌレを迎えるために蓄えた食材を放出したに違いない。もてなすとはそういうことだ。
その気遣いに感謝して、ミトロフは遠慮することもなく食べたが、本来なら子どもらの食事になっていたはずのものである。これは教会への寄進だ、とひとり言い訳をして席を立った。
ミトロフはカヌレを引き連れ、サフランとグラシエに辞去を伝えた。別れというほどの重みはない。グラシエはこの教会にいると知れた。明日でも、明後日でも、ミトロフはここに来ることができる。
再会を約束して、教会をあとにした。




