太っちょ貴族は銀の鳥と再会する
翌朝、ミトロフはいつもの安宿のベッドに寝転んで天井を見ていた。木板には染みが浮かんでいる。
つい先ほど、ミトロフは重大なことを発見した。
「––––あそこの染みは、まるで横を向いたゴブリンの顔のようだ」
ふうむ、と唸る。
かつて聖霊は聖女の背中に啓示を刻印したという。
これはつまり、ぼくにも迷宮に行けという啓示が現れたということだろうか?
顎肉をつまみ、ミトロフは重々しく唇を曲げた。
暇、である。
これまでの休養日であればミトロフの身体は疲れきっていた。心身を休め、腹一杯に栄養をとり、必要があれば武器防具の手入れをする。あとはごろごろとひたすらに寝る。
そうして翌日の探索に備えていれば、あっという間に一日は過ぎていた。忙しい毎日ではあったが、それが心地良くもあった。
やるべきことがある。それを自分もやりたいと思える。
そうした毎日は、ミトロフがこれまで感じたことのない充実感をもたらしてくれていた。
しかし今、ミトロフの明日は遠のいている。
右腕を痛めたことで、しばらくの休養を申し付けられていた。
することもないし少しくらいは迷宮に行ったっていいだろう……ミトロフひとりであればそうも考えたに違いないが、カヌレはそこまで甘くなかった。
先月のことだ。ミトロフはカヌレと共に銀の騎士に決闘に挑んだ。それはカヌレの自由を守り、共に迷宮に挑む日々を過ごすためのものだった。辛うじて決闘に勝利したのちに、カヌレは何を思ったか、ミトロフに盾を捧げたのだ。
ミトロフはあくまで仲間であると言い含めたが、カヌレはそれ以来、以前にも増してミトロフをよく支えてくれるようになった。
彼女の本質は騎士であり、その生真面目な性格も相まってか、ミトロフの身を守ることに関して抜かりがない。
今回、ミトロフは長く休むつもりはなかった。
なにしろ治療費という負債を抱えている。生活費も稼がねばならない。のんびりと寝ている余裕はないというのがミトロフの言い分であった。
カヌレはミトロフの主張をよく聞いた。それから、
「お話はわかりました。ではわたしがより一層励みますので、いまはお休みください」
と言い切ったのである。それ以降、ミトロフが何を言っても、カヌレの牙城を崩すことはできなかった。
困ったときに助け合うのが仲間ではありませんか、わたしの力はよくご存知でしょう……。
以前にミトロフ自身がカヌレに言ったことを持ち出されるのだから、反論のしようもない。
カヌレは案外にも頑固で、ミトロフとの論争にも一歩も引かぬ才媛であった。ミトロフは敗北を認めることになったのだが。
「だめだ。休めん」
ミトロフは身体を起こした。支えに使った右腕の肘がぴしと痛んだ。
治癒の奇跡を担う神官に頼めば、あっという間に治るだろう。さらに借金を増やす覚悟があるなら、という注釈は必要だが。
すぐ治すこともできず、じっくり休むのも気が落ち着かない。ここしばらく、冒険者として勤労に励みすぎたらしい。習慣とは恐ろしいもので、あれほど怠惰な生活を極めていたミトロフであっても、今では退屈さを持て余している。
狭い部屋にひとり寝ているのも無為に思えて、ミトロフは部屋を出ることにした。
私服ながらも、腰には剣帯をつけて刺突剣を吊り下げている。必要はないとわかってはいても、腰元にあることで落ち着く重みである。
明るい日中の街には、夜とは違う賑わいがある。ミトロフが通りを歩くのはたいてい、探索帰りの夜である。ときには深夜になることもある。迷宮内には太陽も星もなく、時間を測ることは難しいのだ。
大通りには辻馬車が走っている。行き交う人の群れをどけるために、御者が鐘を打ち鳴らしている。新聞売りの少年が声を張り上げて歩き、向かいの通りでは大道芸人が拍手をさらっている。耳を叩くような騒がしさすら街の活気に馴染んでいく。
ミトロフは当てもなく歩いていく。どこか行く場所があるわけもなく、訪ねる知り合いもなく、帰るべき場所は安宿だけ。
行き交う人の波の端に紛れていても、どこか自分が孤独であるようにミトロフには思われた。
ふと波を外れて細い小道に向かう。どこに繋がるかも分からないが、どこに行きたいわけでもない。
そうして道をふたつ、みっつと曲っていけば、人の気配は少しずつ薄れ、建物に挟まれた小道が延々と繋がるような場所を歩いている。
真昼でありながら薄暗い影が落ちている。頭上には色の抜けたボロ切れが日除けに張られ、道端に座り込んだ痩せこけた男たちが煙草の煙をくゆらせていた。
少し進めば、板切れを乗せた樽を男たちが囲んでカード賭博をしている。男がミトロフを見る目が、お前は場違いな場所にいると雄弁に告げていた。
早々に引き返したほうが良さそうだとミトロフが足を止めたとき、通りの先に並んだ木扉のひとつが開き、中から人影が出てきた。小柄な姿である。
頭上に張られた天幕の隙間から漏れた光が白々しく、フードを被った姿を照らした。首元に流れる銀の髪がきらきらと光の粒を反射している。
ふと視線が通った。互いの顔を、互いに認めたことは間違いがない。ミトロフは目を丸くした。見知った顔である。
「––––グラシエ?」
それはミトロフが初めて迷宮に潜った際に出会った、エルフの少女である。ミトロフに冒険者としてのイロハを教え、共に”赤目”のトロルと戦った戦友であり、故郷の村の問題を解決するために去って行ったはずであった。
見間違いかとも思った。しかしその相手もまた、思いもかけない場での奇遇の再会に、驚愕を隠せてはいないようだった。
目を丸くし、小さな口をぽかりと開けた顔は、やはりグラシエに違いがない。
次の瞬間である。ミトロフが手を上げて駆け寄ろうとするより早く、グラシエはフードを目深に抑えながら駆け出した。
「ぐ、グラシエ!?」
慌てたのはミトロフだ。顔を見るなり逃げられる心当たりはない。唐突に走り出されては、ミトロフも追うしかない。
戸惑いながらも駆けるが、グラシエはミトロフとは比べ物にならぬほどに俊敏である。
あっという間に距離が離れたかと思うと、交差する小道にさっと曲がってしまう。
ミトロフがようやく同じ場所を曲がったときには、もうその後ろ姿は見えなくなっていた。
「どういう、ことだ……?」
弾んだ息を持て余しながら、ミトロフは壁に手をついて通りを見据えた。
左右を挟まれた細道は昼ながらに薄暗く、緩やかな下り坂になっている。人の気配はない。暗く沈んだ割れ窓と、扉すらない入り口が並んでいる。
ミトロフは呆然と立ちんぼになっている。懐に手を入れ、小さな耳飾りを取り出した。鳥を意匠した銀細工のそれは、別れ際にグラシエが渡してくれたものだった。
これは貸すだけだ、と彼女は言った。
再会を約束するはずのものだった。
しかしどうしてか、彼女は自分との再会を望んでいないようだ、とミトロフは鼻息をついた。




