太っちょ貴族はこの一杯のために生きている
うーん、とミトロフは天井を見上げている。
もうもうと上がっていく湯気が白い靄を掛けていた。壁に開いた通風口から風が吹き込むと、靄はふっと流されて消えていく。
そこに湯気が立ち上り、風がまた吹き流す。そんな動きをぼうっと眺めている。
すっかりミトロフの習慣となっている公衆浴場には、いくつもの浴槽がある。
中心には円形の大浴槽があり、すり鉢状に深くなっているために、中心では肩まで浸かれるようになっている。そこがやはり一番の人気で、いつも人の声に溢れている。ミトロフは中心には寄り付かず、いつも人の少ない縁を選んでいる。
あまりの広さにそこばかりが目立つが、浴場は左右にも広がっており、それぞれに特色のある湯を張っている。
さいきん、ミトロフは日替わりでそれぞれの湯に浸かるという楽しみを見つけていた。
今日は薬湯である。迷宮で産出された薬草の一種を溶かし込んだ湯であり、傷や打ち身によく効くらしい。
十人も入れば肩身の狭い浴槽であるが、入っているのはミトロフと、老人がふたりばかりである。薬草というだけあって臭いがきつく、心身を休めるというよりは苦行のようにも感じられる。
ミトロフは視線を落とし、湯を掬い上げてみる。
細かく千切られた緑の欠片は、おそらくは薬草を刻んだものだろう。湯は深緑に染まり、まるで藻に濁った小池に浸かっている気分になる。
まさにこれが、ミトロフの求めているものである。
掬い上げた薬草まじりの湯を、右腕に塗り込んでみる。
昼間、トゥチノコを三度、串刺しにした。
初回は偶然の産物であったが、二度目は狙ってやったことである。再び遭遇したトゥチノコと戦ってはみても、すぐに最適解が見つかるわけもなかった。
壁で待ち、カヌレが弾き、ミトロフが追いかけ、試行錯誤をしてみても結局、向かってくるトゥチノコを剣で串刺しにするのがもっとも効率的だった。
身体は大きいために、剣角兎よりも狙うのは容易い。向かってくる場所を見極め、そこに剣を置くという作業は、以前に学んだ小盾の扱いに通ずるものがある。
頭から串刺しにすればトゥチノコは即死する。だが、問題があった。ミトロフの腕力では堪えきれないのである。
受け止めるのも難しく、刺した後に受け流すこともできず、握った剣をもぎ取られるように離してしまう。
結果としてトゥチノコを倒せるのであれば良しとするかと、二度続けたが、ミトロフは見事に腕の筋を痛めてしまった。
薬湯に沈めた右腕を揉みほぐしても、肘から手首につながる痛みと違和感は拭えない。
「……どのみち、あれでは剣がだめになってしまうな」
口の中で転がすように呟く。
ミトロフの扱う刺突剣は、魔物と戦えるように頑丈に作られたものである。けれど刺突に特化したものに違いはなく、剣身は細い。
何度もトゥチノコの突進を受けていれば、やがては折れるということもあり得る。弾き飛ばされて剣身が床や壁にぶつかるのも良くない。
ではどうしたものか、とミトロフは腕を組もうとして、右腕に響いた痛みに小さく悲鳴をあげた。
やれやれ、とため息をついて、ミトロフは湯を上がった。
更衣室で服を着てから休憩場に向かう。並んだ木の長椅子には湯上がりの男たちが腰掛けている。
湯の中では談笑する声も大きく響いていたが、椅子に座る男たちのほうは穏やかなものである。
湯上がりの身体を冷ましているという風で、揺れ椅子で目を閉じている者もあれば、長椅子でごろりと横になってしまっている者もいる。
彼らの傍らによく見るのが木製のジョッキである。中身はミトロフの知ったものに間違いはないだろう。
ミトロフは壁際の売店に向かうと、ミルクエールを一杯、注文する。風呂に入った後は、ここで休みながらミルクエールを飲む。そこまでがミトロフの日課である。
カウンターの後ろには巨大な箱がある。その中には氷水が詰められ、小樽がいくつも浮かんでいる。受付の老人はひとつを取り上げて栓を抜くと、ジョッキに並々と注いだ。小樽ひとつでジョッキ一杯分である。
ミトロフはジョッキを受け取ると、人の少ない長椅子を選んで腰掛けた。
休憩場にはあちこちに下働きの男たちがいて、大きな団扇で風を送っていた。そのうちのひとりが気を利かせ、ミトロフに風を向けてくれる。湯で火照った身体に当たる風がぬるくとも心地よい。
白く泡立ったミルクエールは、見ているだけで涼しくなるほど冷え冷えとしている。ミトロフはジョッキに口をつけた。
ごっ、ごっ、ごっ……
喉を鳴らしながら、冷え冷えとしたミルクエールを胃に流し込む。あまりの冷たさにミトロフは目にぎゅうっと力を入れる。それでも止めない。喉から胸から腹にきぃんと響く冷たさ。
迷宮での疲労、風呂での乾いた喉と身体、その全てがこの一杯で満たされる。
「––––ぷひぃぃ!」
ひと息で半分ほども飲み干して、ミトロフはようやく口を離した。
「……はぁぁ、生き返る」
熱い身体に、冷えた腹、届く風はゆるくも涼しく、すべて揃って至福というものである。
ミトロフは長椅子に腰掛けたまま、ぼけーっと視線を弛ませた。何を見ているわけでもなく、何を考えるわけでもなく。
完璧に糸を緩めるこの時間があるからこそ、迷宮の中での緊迫の時間をやり過ごせるのである。
ミトロフはちびちびとミルクエールを舐める。
そのうちに温くなってくると、清涼なほど研がれていた香りが鈍り、ミルク臭さが立ってくる。ぬるくなったミルクエールは飲めたものではないので、美味いうちに飲み干してしまう。
「……帰るか」
ミトロフは立ち上がると、売店にジョッキを返してから休憩所をあとにした。迷宮探索での疲れと、湯上がりの気だるさと。身体に残る疲労感によって、今日も生き残ったのだと実感する。
なにかを成した。そんな充実感を腹に収めて、ミトロフは鼻歌など歌いながら、安宿への帰途に着く。




