太っちょ貴族は引き続き金に困っている
ぱち、ぱちぱち、ぱちん。
カリカリカリ……ぱち、ぱち。
––––だからお前があそこでビビったせいだろ。
––––都合が悪い時だけ俺のせいかよ。
薄い壁越しに、隣の部屋で男たちが怒鳴りあっているのが聞こえている。
どたん、ばたん。ばりばり。
ぱち、ぱちぱち。カリカリ。
「ふむ。今週の稼ぎは悪くないな。予備費に多めに振り分けよう」
蚤の市で買い求めた古びた算盤を弾く手を止め、ミトロフは手帳に数字を書き込んだ。
ギルドから斡旋された安宿の狭い部屋には椅子もない。ミトロフは床に外套を敷いて座り、ベッドを机がわりにしていた。
ページには几帳面に枠線が引かれ、日々の生活と探索による出費と収入が細やかな字で記されている。
くぐもった叫び声と同時に、ドン、と上の部屋が床鳴り、埃と砂が降ってくる。
髪の毛と肩についた砂を片手で払い落としながら、ミトロフはペン尻を唇に押し当てた。
「返済は順調だ。カヌレが調理器具を買い足すつもりだと言っていたしな……いくらか渡せるか」
ミトロフは貴族の子である。領地の経営管理のみならず、金勘定は必須の技能である。
幼少時より家庭教師に厳しく学んだために、帳簿付けの作業は苦にならない。まさかこんなところで役に立つとは、家庭教師も思っていなかっただろう。
今のミトロフは借金を抱えていた。
先月、ミトロフはとある事情から騎士と決闘をしている。その際に負った怪我のため、施療院の神官に治療を頼むことになった。
神官は“奇跡“とも称される治癒の魔法により、たいていの怪我は元通りにしてくれるが、それは大層に高い“寄進”が必要なのである。
すぐに払えない者に高利で貸し付けるような悪どいことはしないが、踏み倒すことは絶対にできない。
ゆえにこうして、分割で返済をしているのだ。
ミトロフのように施療院……神官に借財のある冒険者は少なくない。その借金を返すために冒険者を辞められないという状況にいる者もいる。
治療費を抱えた冒険者は、みな慎重になる。怪我に怪我を重ねるわけにはいかないからだ。ミトロフも例外ではなく、ここしばらくは足を緩め、着実安全な迷宮探索を心がけていた。
今度はどーんと、隣の部屋の壁が震えた。大きなものがぶつかったようである。
「そうだな、ここらで一発、どーんと返済したいものだが」
いくらか蓄えはあるが、それは非常事態用の資金である。すべてを返済に回すわけにはいかない。
大金を稼ぐ当てがないわけではない、とミトロフは考える。
ブラン・マンジェ。それは迷宮に住む人々の“長“である。彼女は迷宮で産出される“アンバール“……非常に希少なメープルシロップを統括している。
せんだって、ミトロフは彼女の依頼を受けることで、小袋ひとつの“アンバール“を報酬とした。それは丸ごと別の人間に託してしまったために、売っていくらになるかは分からないままだが、返済の役に立つに違いないとわかっている。
しかし、“迷宮の人々“という集団も、ブラン・マンジェという女性も、どうにも計り知れない。彼女には何か狙いがあり、それに積極的に関わることがどう影響を及ぼすのかが、ミトロフにはちょっとばかし怖いのだった。
ひとまずは、コツコツと数字を減らしていくことしかできない。何度考えても至る答えである。
それに、とミトロフは手帳を眼前に掲げた。
少しずつ減っていく借金の数字。これを眺めるのが、最近のミトロフの楽しみになりつつあった。
目に見えて分かる成果である。
どたばたと壁が響いた。ついに隣の部屋で殴り合いが始まったらしい。上の階ではガタガタと床鳴りが絶え間ない。うるせえぞ、と苦情の怒鳴り声がどこで聞こえる。
そんな安宿の騒音も、もうすっかり慣れてしまった。
ミトロフはあくびをひとつ。ランタンの火を吹き消してからベッドに潜り込んだ。




