太っちょ貴族はやっぱり金に困っている
ミトロフはここ一週間、迷宮探索を休んでいた。
どうにも一度は斬り離されたらしい腕だが、日ごとに痛みは薄れ、感覚も以前と変わりない。しかし不安はなかなか拭えないもので、しばらく安静にという施療院の医師の言いつけを破るつもりはなかった。
ようやく医師から完治の太鼓判を押されて、ミトロフは久しぶりに冒険者に戻ることができる。
随分と役に立ってくれた小盾は完全に割れてしまった。今ではまた、修復の終えた革のガントレットが左腕を守っている。
ギルド前の広場に向かうと、目立つ黒のローブ姿が見える。背には大きな荷物鞄と、丸盾がある。
「カヌレ、待たせた」
「いえ。診察はどうでしたか?」
「完治だと。これですっかり元通りだ」
波乱があったはずなのに、生活はまるで元に戻ったかのようである。ミトロフの前にはカヌレがいて、ふたりはまた、冒険者として迷宮に潜る。
ミトロフの住処は、ギルドと提携しているあの安宿から変わっていない。
まったく、ひどい場所だ。毎日、朝も夜も誰かの声で騒がしく、不衛生で、ベッドは狭い。
食事は屋台ばかりだが、最近はカヌレがよく料理の世話をしてくれる。
衣服は古着ではあるが買い直した。なにしろ、騎士との決闘で破れ、血塗れになってしまった。
変わらないようでいて、少しずつ変わっている。そんな日々を重ねていくことが、今のミトロフの望みであるように思えた。
ふたりはギルドのカウンターに向かう。馴染みの受付嬢に挨拶をして、手続きを頼む。
「あら、お久しぶりですね、ミトロフさん」
「少し怪我をしていてな」
「もう体調はよろしいんですか?」
「すっかりよくなった。施療院にはずいぶんと世話になった。ぼくの左腕も喜んでいる」
「なるほど、施療院に……ああ、たしかに請求書が来ていますね」
「……そうだった。治療費をまだ払っていなかったな」
いくらになる、と気軽に訊ねるミトロフに、受付嬢は苦笑を返した。
「ミトロフさん、すごく大きな怪我をなさいました?」
ああ、左腕がちょっと取れてしまったんだ、とは言えなかった。
ミトロフの反応を窺うように、受付嬢はおずおずと治療費を告げた。
「––––そうか。いや、そうだな、そうだろうな。腕がくっついたんだ。安いくらいだ」
「ミトロフさま、お気を確かに」
ふらりと足元の覚束ないミトロフの肩を、横からカヌレが支えた。
ミトロフは頭を抱えた。大変な金額だった。
恐ろしい問題に向き合う必要がある、とミトロフは悟った。こんなに難しい問題は他にない。
治療費のために、ひとつだけ残している”アンバール”を売って支払いの足しにすべきか。それとも溶かして食べるべきか、それが問題だ。
王妃が愛する、天上に梯子をかけるほどの至上の蜜の甘み––––それを、ぼくに諦めろと言うのか?
ミトロフは苦悶の表情で天を仰いだ。
「金だ。金が欲しい。この世のすべては金なんだ」
と、ミトロフは呟いた。
了




