太っちょ貴族はいびきをかく
枝を振っていた。
遠い昔の記憶を、ミトロフは夢に見ている。
暴風に荒れた日の翌朝のこと、庭には木々の枝が散乱していた。庭師と手の空いた使用人たちで枝を集めている。
ミトロフはその中から手頃な枝を見つけて拾った。
––––母上、見てください。
ミトロフは枝を振るう。習い始めたばかりの剣術の型を見せる。
––––まあ、ミトロフ、勇ましいことですね。
母は微笑んだ。微笑んでいた、はずだ。
夢の中であっても、母の顔をミトロフはもう思い描けない。
––––これで母上を守って差し上げます。
––––ならば、強くならねばな。守るためには力が必要だぞ。
そう言って、誰かがミトロフの頭に手を置いた。見上げれば、それは若かりし父である。柔らかな顔でいる。もう長らく、そんな表情を見た覚えはない。
––––ミトロフ、お前には剣の才能があると聞いている。しっかり励みなさい。
––––はい、父上!
ああ、この言葉か、とミトロフは笑った。
だから自分は、剣を振るのか。
すべてが今に、繋がっているのか。
遠い思い出の中に置いてきた言葉を、すっかり忘れてしまっていたらしい……。
ふと、意識は目覚めた。
目を開けると、そこは病室である。壁にかけられたランタンばかりが明かりで、部屋は深い青に沈んでいる。窓にかかったカーテンが夜風を孕み、ゆったりと揺れていた。窓の外ではとっくに夜が深まり、月には雲が被さっている。
「––––ミトロフさま、お目覚めですか」
その呼び声に、ミトロフはふっと視線を向けた。
窓とは反対側にカヌレが控えていた。
「カヌレ、ぼくは」
「兄さまの剣を受け、意識を失われたのです。無茶をなさいました」
咎めるような口振りであるが、どこか声音は優しい。
「左腕が千切れかかっておりました」
カヌレは優しく、尋常でないことを言う。
「……冗談か?」
「いえ」
「見てもいいか。ぼくの左腕」
「どうぞ」
力を込めるのが恐ろしく、ミトロフはそっと頭を起こして左腕を見る。包帯が巻かれ、その上に石膏を塗り固められている。
「……とりあえずは、まだ付いているな」
「神官に依頼し、治癒の魔法で繋げて頂きましたので」
「……それは、随分と金が掛かったろうな」
「致し方ありません。ミトロフさまの腕にはかえられませんので」
それはそうだ、とミトロフは頷き、枕に頭を沈めた。
うっすらと、察するものがあった。
「ぼくは、届かなかったか」
天井を見上げながらミトロフは呟いた。
カヌレがあまりに冷静である。自分の腕は千切れかけである。ここは病室である。勝ったとは思えなかった。
「すまなかった、カヌレ」
謝るミトロフの頭上に、カヌレは手を差しかけた。黒革の手袋は拳のように握りしめられている。
眉間に皺を寄せるミトロフに見えるように、カヌレは手を開いた。指で摘んでいるものがある。それは赤い房のようである。
「兄さまから伝言がございます––––見事、と」
「……なんだって?」
ミトロフは慌てて身体を起こし、左腕に響いた激痛に悲鳴を上げた。
「ミトロフさま! 魔法は効いていますが、一週間は安静にしているようにとのことです。痛みますか?」
石膏で固められた左腕の中に、棘だらけの鉄球も練り込んだような痛み。ミトロフは涙目で耐えながら、なんとか右腕だけで上半身を支えた。
「散々な扱いに左腕が苦情を訴えているんだろう……そんなことより、それは? ぼくの剣は届いていたのか?」
はい、とカヌレは頷いた。
「これは兄さまの剣帯の飾り紐です。ミトロフさまの一刺は、兄さまに届いたのです」
飾り紐––––おそらくはミトロフの最後の剣もまた、躱されたのだろう。しかし騎士の急激な動きに跳ねた紐を、剣先が斬ったらしい。
ミトロフは笑う。全身を脱力感が包んでいた。
騎士に触れたら勝ち––––果たして剣帯の飾り紐は、騎士の一部かどうか?
怪しいところではあるが、騎士が負けを認めた。ならば、ミトロフもまたこれは勝ちと受け入れて良かろう。
「カヌレ、きみの兄君は、恐ろしく強いな」
「はい。わたしは一度とて勝てたことがありませんでした」
「だが今回は、ぼくたちの勝ちだ」
「––––はい。ミトロフさまの一刺、たしかに見届けました」
ようやくその声に喜びが混じる。
ミトロフはカヌレを見る。すっかりフードに隠された下に表情は見えず、それが不便と言えば不便ではあるが、もう慣れたものである。
「カヌレ、これできみは自由だ。好きなことをするといい。できれば一緒に迷宮を探索してくれると、ぼくは助かるが」
「好きにして、よろしいのでしょうか」
「もちろんだ。きみに指図する人間も、家も、もういない」
「……で、あれば」
と、カヌレは椅子を立った。壁際に立てかけてある丸盾を取って戻ってくると、カヌレはその場に膝をついた。
月にかかっていた雲が流れる。背後の窓から透き通るほどに鮮やかな光が差し込み、ミトロフの背と、跪いたカヌレを照らした。
「わたしはただのカヌレとして、ミトロフさまの盾となりたい。あなたが何をするのか、どこまで行くのか、それを一番近くで見届けること……それが、今のわたしの望みです」
––––お許しいただけますか。
カヌレは丸盾を両手で捧げ持った。それはさながら騎士の叙任式のようである。騎士の象徴たる剣はなく、捧げるのは盾であるけれど、それがカヌレらしいと、ミトロフは笑う。
ミトロフは右腕で丸盾を受け取る。本来ならば騎士の肩を叩いて声をかけるが、ミトロフにその丸盾は重すぎた。
まったく、格好がつかんな……と苦笑しながらも、丸盾を返した。
「––––許す。よく励んでくれ」
「––––はいっ」
「ただし、ぼくらはあくまで仲間だ。対等だからな」
「かしこまりました」
頷きながらもカヌレは跪いたままで、口調もまた堅苦しい。それが染み付いた個性なのか、カヌレに変える気がないのか、ミトロフには分からない。
しかし、まあ、いいか。
「きみがいてくれて嬉しい」
ミトロフは伝えて、もう一度ベッドに横たわった。そのまま水の底に沈むように、深い眠りに落ちた。
すぐに、ふごご、といびきが鳴った。ミトロフの少しばかり上向きの鼻からは、穏やかな寝息、とは言えない豪快な音が鳴る。
月にまた雲がかかる。ゆっくりと部屋は暗くなっていく。雲の合間からは柔らかな銀の光がこぼれ落ちている。
ミトロフのいびきが部屋に響いている。
その傍らに控えたまま、ひとりの少女がミトロフの寝顔をいつまでも見守っていた。




