太っちょ貴族は手袋を握る
決着までには時間がかかった。
ディノポネラの毒を充分に警戒し、ミトロフは不用意に飛び込むことをしなかった。カヌレの盾に頼りながら、堅実に、少しずつ、文字通りに針を刺すように攻撃を重ねた。
華麗さも優雅さもない戦い方であったが、それは魔物を相手にしたときには最も正しい戦法である。
パラポネラと比較すればたしかに恐ろしい蟻だった。しかし変異種と呼ばれる赤目のトロルを討伐した時の戦いに比べれば、激闘ということもない。
羽を切り落とし、脚を斬り飛ばし、ついにミトロフはディノポネラの首を落としたのである。
「……良い戦いだった」
ミトロフは感じ入るように呟いた。盾のカヌレと、剣のミトロフ。ふたりは互いに頼り、支え合い、補い合った。強敵に違いないディノポネラを相手にしても、恐ろしさはなかった。
「……満たされたような気持ちです」
カヌレもまた、思うものがある。迷宮の中で命を預け合い、自らの役目を果たすことで達成される感覚……それはひとりでは決して不可能であっただろう。
協力することで、届かなかった場所に手が届く。そんな不思議な現象に自分が寄与したことによって、カヌレにも、ミトロフにも、青い炎のような静かな高揚感が打ち寄せていた。
「お見事です」
戦いが終わったのを見て、ブラン・マンジェが歩み寄ってきていた。
ミトロフはレイピアを納刀し、振り返る。
「これでクエストは達成か?」
「もちろんです。おふたりの手際の良さ、わたくしの想像以上でした。良いパーティですね。今後にも期待できます」
ブラン・マンジェの言葉に、ミトロフは頷いた。
カヌレは俯いた。今日が最後の冒険なのだとは、言わなかった。
「どうしてこれの討伐をぼくらに依頼したのかは……教えてもらえないのだろうな」
ブラン・マンジェは沈黙を答えとした。わずかに小首を傾げた様子が、フード越しに伝わった。
何か理由はあるはずだ、とミトロフは察している。
ミトロフが察していることを、ブラン・マンジェは分かっている。
それでも話さないのであれば、考えても仕方のないことだろう。知る必要のないこと、その時でないというだけである。どちらにせよ、この依頼を受けると決めたときに、ミトロフは深くは聞かないと決めていた。
「報酬は、あれか?」
「ええ、ここでお渡ししましょう。アティ」
アペリ・ティフが後ろに控えていた。胸に麻袋を抱いている。
こちらにやってきたアペリ・ティフが、ミトロフの前に立った。
「……ミトロフ、私も感謝、する。これで道を歩ける」
「また兎に襲われないようにな、気をつけろ」
「襲われない。そんなにまぬけじゃない」
アペリ・ティフはツンと唇を尖らせた。獣耳もまた、不満を示すように忙しない。
ミトロフは笑った。初めて会ったときは無愛想に思えたアペリ・ティフも、ずいぶんと表情豊かになったようだ。
「ご存知でしょうが”アンバール”は貴重です。お取り扱いにはご注意くださいませ」
「ああ、大丈夫だ。使い道は決めている」
「あら……参考までにお聞きしても? お金の扱い方で、人となりが分かるといいます」
アペリ・ティフから麻袋を受け取りながら、ミトロフは笑った。それがブラン・マンジェへの答えだった。
▼
迷宮から上がる。ギルドの受付カウンターで手続きをしてから、外へ向かうために広間を横切る。そこで、二人は彼を見つけた。
広間の中心に全身鎧が立っている。鏡面のように磨き上げられた銀の騎士甲冑は勇ましく、しかし冒険者ギルドにあってはひどく不釣り合いだった。
「……兄さま」
カヌレが小さく声に出した。驚きよりも諦めの含まれた、か細い声だった。
騎士がミトロフとカヌレを待っているのは疑いようもない。ふたりは騎士の元へ向かった。
「存外に早かったな」
騎士が平然と声をかける。
「いつから待っていたんだ?」
「なに、ほんの2時間前だよ」
2時間、衆目の中で立ちっぱなしだったらしい。恐ろしい胆力だな、とミトロフは呆れた。
「約束の日まで時間はあると思うが?」
「もちろん覚えているとも。しかし、場所と時刻を指定するのを忘れていたと思い出してね。話を詰めるために待っていた」
たしかに、場所も時間も決めていなかった。ミトロフもカヌレも、騎士が来ないでくれるならそれに越したことはないと思っている。自分から指定する理由もなかった。
「さて、どうする?」
騎士はカヌレに訊ねた。
ミトロフはカヌレに振り返った。
カヌレはじっと足元を見ている。拳は握られている。
冒険が、夢のような現実が、終わろうとしていた。逃げ出した未来がいま、ついにカヌレを捕まえたのだ。
「––––いま、参りましょう」
と、カヌレが言った。
「それでいいのか?」
と騎士が訊き返した。
「はい。名残惜しくなってしまいます」
周囲には冒険者たちが行き交っている。ミトロフたちに目をやることはあっても、誰も足を止めず、どこかへ向かい、どこかへ帰っていく。誰にでも行く場所があり、帰る場所がある。
それはカヌレも同じで、帰らねばならない場所というものがあるのだ。ミトロフもそれは分かっていた。
カヌレはミトロフに顔を向けた。
「ミトロフさま……わたしは」
と、言葉に詰まる。込み上げる何かを堪えるように喉が鳴る。
「……申し訳ありません。良き言葉を、持ち合わせておりません」
声に涙が混じるのはどうしてだろうか。悲しみか、苦しみか。喜びではなく、辛さのためか。
「きみは、思いのほか泣き虫のようだ」
ミトロフは言って、懐からハンカチーフを取り出した。それをカヌレに差し出す。
「……いえ、わたしは、涙は」
「受け取れ」
ぐいと突き出されたそれをカヌレは戸惑いながら受け取った。
ミトロフはカヌレに一歩寄る。
「代わりと言ってはなんだが、手袋をひとつもらえないか」
「……手袋、ですか?」
カヌレは戸惑いながらも素直に従う。ローブの中に手を隠し、片手袋を外すとそれをミトロフに渡す。
「これは、餞別の交換ということでしょうか……」
やけにしょんぼりとした声に、ミトロフは答えなかった。表情は真剣で、視線は鋭い。ディノポネラと戦ったときよりもずっと緊迫した空気を纏っていることにカヌレは気づいた。
「ぼくはきみに謝る必要があると思う。今からぼくは、ぼくの勝手で振る舞う」
「ミトロフさま––––?」
「ぼくは自分がどうしたいのか、ほとんど分からない。だが、これだけは間違いなくやりたいことだと、分かっている」
ミトロフは踵を返した。仁王立ちの騎士に向かって歩き、真正面に立つ。顔の見えない兜を睨め上げる。
「契約満了日よりも早いが、問題はないだろう?」
と騎士が言った。
「ああ、むしろちょうどいい」
とミトロフは頷いた。
「ふむ––––?」
ミトロフは、手にしたカヌレの革手袋を顔の横に掲げてみせた。
それはミトロフが幼いころに何度となく教えられながらも、生涯それを行う機会はないと思っていた作法だった。
心臓が胸を押し上げるほどに鼓動が強かった。手にも背中にも冷たい汗が噴き出している。
目の前にいるのは、騎士である。
戦うために生まれ、戦うために育ち、磨き抜かれた銀の剣である。魔物など、騎士に比べればどうというのだろう。こうして対峙しただけで分かる気配というものがある。挑む前から、結果は明白だ。
それでもなお、引いてはならない時があると知っている。
ミトロフは握った手袋を騎士の足元に放った。
「ぼくはあなたに––––”決闘”を申し込む」
背後でカヌレが息を呑む音がした。




