太っちょ貴族は友達に相談する
ミトロフは受けるかどうかを答えず、迷宮を上がった。
ブラン・マンジェに「どうかお早めに」と釘を刺されたが、ミトロフの腕には毒針が刺さったばかりである。言葉の棘よりもパラポネラの針のほうが恐ろしい。
地上に戻ってきて、そのまま施療院の世話になった。施療院には医師や薬士だけでなく、神官も務めており、怪我の大きさによって受けるべき治療が変わる。腕の良い神官であれば、切り離された手足も繋ぎ直すと聞く。
もちろん無料ではなく、積み上げる金貨銀貨の高さによって、命の重みが決まる。金がなければ軽症であっても死ぬ。それが冒険者の抱える事実なのだった。
ミトロフの腕の治療も、神官に頼めばひと息もせずに完全に治癒するという。もちろん持ち合わせがないので、毒抜きの治療と塗り薬をもらった。それだって安い治療費とは言えない。毒針が骨に当たっていたため、完全に治癒するまでには時間がかかるらしかった。
医者に訊けば、数日は風呂に浸かるなという。
ミトロフが腰湯ならば良いかと粘ると、それならばと医者は頷いた。
結果、いつものように湯場を訪れ、浴槽の縁に作られた腰掛けに座り、半身浴をしながら天井を見上げている。
グラシエは、この風呂をして命の洗濯と呼んでいた。
まったくその通りだと、ミトロフは思う。重い服を脱ぎ、泥と汚れをこすり取り、熱い湯に身体を沈めることで、疲れと悩みが溶けるようである。
ミトロフは風呂に入りながら、考え事をするのが習慣になっていた。湯気の満ちた薄暗い中で考えれば、悩みも湯気のように掻き消えてくれるような気がする。
ミトロフの頭の中には、金という悩みが消えないでいる。
11階層に入ってから収穫らしい収穫がない。パラポネラを倒しても金にはならない。それどころか毒を喰らい、家計簿は薬と治療費で赤字が増えた。
さっさと駆け抜けたいところであるが、ミトロフとカヌレのふたりパーティーでは、無理をして押し通るわけにもいかない。そしてそのカヌレすら、月末にはいなくなってしまう。それはもうあと数日のことである。
いなくなってしまうことは寂しいが、自分がそれを止める権利もあるまい、とミトロフはため息をついた。
カヌレがいなくなったあとは、ひとりで潜るしかない。あるいは、どこかのパーティーに参加させてもらうか。
どうなるにせよ、生きるためには金が必要で、それを何とかして稼がなければならない。
そうとなれば、ブラン・マンジェの依頼は魅力的かもしれない。報酬は”アンバール”がひと袋。ポワソンという商人があれほど欲しがっていたのだ。彼に売れば良い値段になるだろう。
カヌレがいなくなっても、しばらくは生活費にも困るまい。静かで、広くて、清潔な宿にも泊まれる。深夜に枕元を這う虫に起こされ、朝まで眠りにつけない日もなくなる。
味はよくとも衛生観念のない屋台の食事で腹を壊すこともしなくていい。
擦り切れた古着に肌をかぶれさせなくともいい。
金さえあれば、全てが手に入る。自分が今求めているものは、金があれば解決できる。
”アンバール”が何かを訊ねたとき、ブラン・マンジェは言った。
これは”甘い蜜だ”と。
気の利いた比喩だ、とミトロフは思った。
甘い蜜に、虫は集まる。”アンバール”という蜜のために、人が集まっている。
「お、ようやく会ったな!」
明るい声が反響した。ミトロフは天井を見ている。横にざぶんと誰かが入る。
「おーい、無視すんなって!」
それでようやく、自分が話しかけられているのだと気づいた。驚いて顔を戻せば、そこにいたのはミケルである。
”守護者”の部屋の前で会って以来である。ミケルもこの浴場に頻繁に訪れているようだが、なかなか顔を合わすことがない。冒険者の生活習慣は乱れがちだ。
「……すまなかった、考え事をしていてな」
「なんだ、悩み事か? 話、聞いてやろうか?」
ミケルはカラッと笑う。その気負いのない笑顔は、どうにも人の心を軽くする効能でもあるらしい、とミトロフは苦笑した。
「悩みと言えば、悩みだな」
「難しい話はわかんねえから、期待はすんなよ」
「……いや、やめておこう。相談しても答えの出るものでもないだろうしな」
それはミトロフなりの配慮だった。しかし、ミケルは唇を突き出すと「はあ?」と声を高くした。
「誰が答えを出すって言ったよ? オレは聞いてやるって言ってんの。聞くだけだよ!」
「……聞くだけなのか?」
ミトロフが目を丸くする。
「当たり前だろ、お前、オレより頭いいじゃん? お前が考えても分からない悩みがオレに解決できるかよ。考えりゃわかるだろ」
「率直に褒められているのか、罵られているのか……」
「答えは知らねえけど、お前がなんで悩んでるのかは聞いてやるって言ってんだよ。ちっとは気が楽になるかもだろ?」
その申し出は、ミトロフにとっては奇妙なものに思えた。
相談とは、つまり問題を解決するためのものだと思っていた。悩みを話す。悩みを聞く。問題は解決せずとも、気は楽になる。そういうことも、あるのだろうか。
だがミケルが自信も満々にそう言うのだから、と、ミトロフは首を傾げながらも、ぐるぐると考えていたことを話してみることにした。
「金を稼ぎたいと思っていた」
「金か。そりゃ稼ぎたいよな」
「クエストの依頼があってな。うまくいけば良い金額が貰えそうだ」
「いいじゃん。受けようぜ」
「ああ……そう、だな」
「なんだよ、依頼主が怪しいのか? 犯罪ごとか」
「いや、そういうこともない」
「依頼ってのはなんだ? 討伐?」
「ああ、討伐だ」
「赤目のトロルよりヤバいのか?」
比較対象を出され、ミトロフはふと考えた、ディノポネラはどれほどの強敵だろう。パラポネラの上位種……疑いようもなく恐ろしい敵ではあるが、あの時ほどの強敵とは思えなかった。
「いや、そこまでではない」
「ふーん。じゃあなんで悩んでるんだ?」
なんで、と訊かれて、ミトロフは言葉に詰まった。
「……なんで、だろう?」
「はあ? そこから分かってねえの?」
呆れた様子のミケルは頭をぼりぼりと掻き乱した。
「お前がなんでそこまで悩んでるのかよくわかんねえけどさ、お前って、なんのために迷宮に潜ってんの?」
「––––何のため?」
「金が稼ぎたいなら、すぐにクエストを受けてるだろ、儲かるんだから」
「それは、そうだろうな」
「ワクワクしたいなら断るかもな。赤目のトロルより弱いなら戦ってもつまんなそうだし」
「……なるほど」
「結局さあ、お前が何したいかが決まってねえからさ、細かいことでいちいち悩むんじゃねえの?」
湯の中にいながら、ミトロフは自分が雷撃を受けたような気持ちだった。ここしばらくずっとミトロフがもやもやと抱えていた問題の核心に触れられたような気がした。
「ミケル、君は何がしたいか決まっているのか? どう判断するか、そんな基準があるのか? 教えてくれ」
「そりゃあるよ––––面白そうかどうか、これだな!」
ミケルは立ち上がり、腕を組んで宣言した。素っ裸で仁王立つ姿は滑稽でしかなかったが、そこまで堂々とされては、どうしてか格好良く見えてくる。
それはミケルの背に、揺るぎない一本の柱が通っているように思えるからかもしれない。
面白いかどうか……それ自体が良い悪いではなく、ミケルはその信念を揺らがすことなく行動している。ミケルという人間を支えている。だから迷うことなく決断し、進んでいけるのだ、とミトロフは思った。
「……分からん」
と、ミトロフは力なく項垂れた。
「ぼくには、そういう信念がない。どうして冒険者をするのか、迷宮に潜るのか、判断すべき信念が、ない」
「な、なんだよ……そんなに落ち込むなって」
ミケルが困ったように頬を揉んでいる。
「ほら、お前にもあるだろ、こうしたいとか、あれが楽しいとか。自分のことなんだからさ、他のやつには分かんねえよ。そういうの」
至極真っ当なことを言われ、ミトロフは唸った。
「ぼくはこれまで、言われたことをやってきた。だから、自分でやりたい、楽しいと思うことが、よく分からない。ぼくが選んでやったのは食うことだけだ」
その結果、ミトロフの身体はずいぶんと重くなった。
迷宮でどれだけ歩いても、戦っても、汗をかいても、ミトロフは空腹に任せて食べる。食べている時間が、その行為が自分の心を守っている。
「ふうん? じゃあ探せば?」
「探す?」
ミケルの呆気のないひとことにミトロフは首を傾げた。
「そんな丸っこい目でこっちをみるなよ。簡単なことじゃん」
ミケルは縁に腰掛けるとミトロフの顔をびしっと指さした。
「分からねえのはやったことがないからだろ? じゃあやればいいだけじゃんか」
「だ、だが、なにをすれば……」
「お前がやりたいことをだよ。もうさ、お前に何かしろって命令する奴はいないんだろ? だったらお前が自分で決めれば良いんだよ」
「それは、そうだ。でも、それをどうやって決めれば……」
「サイコロでも転がせば?」
ミケルは手をぷらぷらと振りながら投げやりに言った。
「なにかやんなきゃ分かんねえだろ、やりたいことなんて。適当にやるかやらないか決めてりゃ、そのうち分かるんじゃねえの?」
さながら哲学のように、問題は巡っている。何をしたいか分からない、分かるためには何かをすればいい、その何かを決める方法が分からない。ならば一歩目を運に任せる……。
「そんなに投げやりで良いものだろうか……?」
いまだにしっくりとこないミトロフの肩を、ミケルは叩く。水気のある良い音が響いた。
「ダメだったらまた考えりゃいいじゃん」
あまりに能天気で、成功も失敗も軽んじるような言い方に、ミトロフは感心した。そういう物事の考え方を、ミトロフはしたことがなかった。
「……そう、だな。そういうやり方も、良いのかもしれない」
ミトロフは何度も小さく頷き、口の中で言葉を転がした。
自分が、やりたいこと。
そうか、としみじみ思う。もう誰にも命令はされない。誰かの期待に応えねばと努力することも、期待に応えられない自分に失望することも、誰にも期待されなくなった毎日に辟易することも、もうない。
自分で決めて良いのだ。自分のことを。
いまだ、その実感は伴わない。それがどういうことなのか、ミトロフはまだ理解しきれていない。
けれどどうしてか、手足がすっと軽くなる。湯に浸けた足から、熱が伝わっている。それは胸を暖かくする。湯場の中で身体が煙になってふわふわと浮き上がりそうな感覚に、ミトロフは言いようのない気持ちを抱いた。
天井を見上げる。そうだ、ここには天井がある。壁がある。床がある。自分は囲まれている。けれど––––閉じ込められてはいない。
いつでも好きな時に出られる。入るのも自由だ。
「そうか、ぼくはもう決めているじゃないか」
些細な気づきはすとんと腑に落ちる。
ぼくは選んで、この湯船に浸かっている。ぼくはこの風呂が好きだからだ。風呂上がりに飲むミルクエールも、迷宮に潜ることも、ぼくは選んでいる。
それはおそらく、ミトロフが本当の意味で”解放”を実感した瞬間だった。
急に世界が美しく輝くわけもない。全能感に溢れて力が湧き上がることもない。
ただ、心がすこし、落ち着いたようだった。地面につけた足の感覚がわかる。だったらこの足を前に進めればいい。それだけのことのように思えた。簡単かどうかは分からずとも、自分にはそれを選ぶ自由があるのだと。
「ミケル、ありがとう」
「おう? なんかわかったのか?」
「ああ。ぼくはきみが好きだ」
「––––お前、迷宮で頭でも打ったか?」




