太っちょ貴族は横道に入る
当人と、心配をするものと。意見がすれ違ったときにはどちらが強いのか。
ミトロフはもう平気だと言って迷宮の探索を続けようとする。
カヌレは、気恥ずかしさをフードの奥に隠し、決してミトロフと顔を見合わせないようにしながらも、探索を切り上げることを譲らない。
事実、ミトロフの左腕にはまだ痺れと痛みが残っていた。激しい運動のために腕の筋を違えたような、動かすことをためらう違和感が拭えない。力を込めるだけで鈍痛がはしり、腕の可動域にも不自由がある。
ミトロフはそれを秘密にしたまま先に進もうとしていた。
「毒消しはよく効いている。休んだおかげで痛みも抜けた。先に進もう」
11階に降りてからの収穫は少ない。倒しても得るものもないパラポネラを狩るだけでは、毒消しを使った分だけ、今日の収支が赤になってしまう。
「いけません、ミトロフさま。未知の領域を開拓するなら、万全の調子でなければ。毒の影響も甘く見られません」
心配しているのは間違いないのだが、どうにも過保護に思えて、ミトロフは唇を尖らせる。
ちょうど後ろからやってきた冒険者たちが、通路の端で問答を繰り広げるふたりの横を通り過ぎていった。
会話の内容が聞こえていたらしい。ずいぶんと生暖かい視線を置いていった。
「わかりました。では、帰りは大昇降機をお使いください」
と、冒険者たちの背を見送ってからカヌレが言う。
「大昇降機を? 赤字じゃないか」
「お乗りになるのはミトロフさまだけです。わたしは歩いて帰ります。それでしたら、もう少し探索をしてもいいです」
ミトロフはううむと顎を引いた。たぷんと贅肉が重なり、首を囲むように肉の浮き輪ができた。
「大昇降機がお嫌なら、今から歩いて戻りましょう。余力があるうちに引き返すべきです」
それはカヌレの言い分が正しい、とミトロフは頷く。
余力がなくなってから引き返したのでは遅い。帰りにも魔物はいて、どうしても戦わねばならない場面はある。
今は平気だと思っていても、数十分後に毒による不調がぶり返すことも考えられる。
先に進むと意地を張って強行することはできるが、ミトロフはカヌレを見つめる。
進行方向を塞ぐように、腰に手を当てて仁王立ちである。カヌレの意思は固いようだった。
ミトロフは唸り、不承不承ながらも頷いた。
「……分かった。今日は引き返そう」
「本当ですか。ミトロフさまは良い子です」
明るい調子でカヌレが言った。声まで軽やかである。
カヌレの年齢がいくつかは知らないが、ミトロフよりも大きく歳上というわけではあるまい。幼子に対するような物言いにミトロフは目をパチクリとさせた。
帰りの道すがらも、カヌレは世話焼きの一面を見せる。先頭を歩くのはもちろんカヌレだし、ちょいちょいとミトロフに振り返っては、異常がないか、ちゃんとついてきているかを確認する。
パラポネラと遭遇したときでも、ミトロフが剣を抜くのを止め、カヌレがひとりで戦う。
それはさすがに、とミトロフは参戦する気で構えていた。しかしカヌレは、パラポネラが苦手だという様子は露と見せず、これまでとは一変して勇猛に戦った。
盾で殴ってもパラポネラに有効打とならないことは実証されている。
だが先ほど、カヌレの手刀によってパラポネラは討伐されている。剣を持たずともカヌレは騎士であり、訓練と知識を積んだ専門職である。
パラポネラを盾で弾き、壁に追い詰める。盾の縁を使って、挟み込むようにしてパラポネラの首を断つ。床を這うように接近してきたパラポネラを踏みつけて動きを止め、断頭台のように盾を振り下ろす。
その戦いぶりは、これまでミトロフがカヌレに抱いていた穏やな印象とはまるで違う。戦う者としての風格、冷徹さを孕んだものだった。それは恐ろしいというよりも、ただ頼もしい。
ぼくの出番はなさそうだ……。
安堵と、少しばかりの寂しさと。男としての面子がどうにも立たないように思えたが、事実、左腕を痛めたミトロフが参加するよりもカヌレが戦ったほうが、安全かつ討伐が早そうだった。
ミトロフはカヌレの後ろに付いて歩きながら、そっと盾のベルトを緩めた。
毒針に刺された腕が腫れている。時間が経って落ち着くかと思えば、段々に痛みがぶり返している。腕の芯、骨の中でずくずくと、溶けた鉄が流れているような感覚にある。
刺された瞬間ほどの激痛ではない。耐えられる痛みだ。
カヌレを呼び止めることもなく、ミトロフは歩みを進める。弱音を吐くことは貴族として、いや、男としての矜持が許さない。
「––––ミトロフさま」
「大丈夫だぞ、ぼくは」
呼びかけられた声に反射的に返事を返すと、不審げな空気が戻ってきた。痛みに意識を取られて、声を聞き逃していたらしい。
よくよく見れば、カヌレは通路に直角に繋がった横道に身体を向けていた。
「……すまない、繰り返してくれるか」
「この先で声が聞こえます」
「ふうん?」
横道は天井が低く、上層階で見慣れた迷宮らしい通路である。出入り口には鉄の柵が張られ、道を塞いでいる。これまでも何度も見かけた封鎖された通路だ。地図にも記載されていない。
ミトロフも耳を澄ませたが、どこかで風が唸るような音が聞こえるだけである。
「どんな声なんだ?」
「声を荒げている男性と……」
カヌレが黙り込む。ミトロフは音を立てないように呼吸を抑えた。魔物の姿に変わったカヌレは、耳の良さも得ているらしい。
「聞き間違いかもしれませんが」
とカヌレは前置きをして、
「あの獣人の少女––––アペリ・ティフの声が聞こえた気がします」
本当か、とは訊ねない。カヌレがそう言うならそうなのだろうとミトロフは考える。
男が声を荒げている、という先の言葉のほうが重要だ。アペリ・ティフが男と争っているということになる。
なにも知らなければまだしも平静でいられたが、ミトロフには懸念があった。自分の腕のことではなく、アペリ・ティフが渡してくれた“アンバール“という石のことである。
それは貴重で、ギルドが内密にしたいもので、欲しがる人間がいるらしい。
獣頭の男はミトロフに肝心なところを教えてはくれなかった。そのために余計に、ミトロフには謎ばかりが大きく見えている。
「……様子を見に行こう」
「では壊しますね」
ミトロフの言葉に、カヌレは問答をすっ飛ばして行動に移そうとする。ミトロフのほうが戸惑ってしまう。
「あ、いや、きみはそれでいいのか? もっとあるだろう、選択肢が。事情を訊くとか止めるとか」
はて、とカヌレは首を傾げた。
「ミトロフさまはあの少女と親しみがありますでしょう?」
「……ああ、あるな」
「騒動に巻き込まれている様子があれば、ミトロフさまは行くと仰るに違いないと分かっておりました。ですが腕のこともあります。ご無理はなさらぬように」
言って、ミトロフの返事を待たず、カヌレは鉄柵の中心にある扉に手をかけた。大きな錠が付いている。そこを壊そうというのである。
しかし予想に反して、扉は軋みを上げて開いた。
「鍵はかかっていないようです」
「それは都合がいい」
鍵をかけて侵入を禁止された場所だ。鍵を壊して入るのと、たまたま開いていたので入ったのとでは、気持ちがいくらか変わってくる。
ふたりは鉄の柵をくぐり、横穴に足をすすめた。




