太っちょ貴族は蟻と戦う
大昇降機を使える権利を得ても、それを利用する人は多くはない。利用料金が高いからだ。少しばかりは悩んだとしても、答えはやはり決まっている。ミトロフとカヌレは結局、徒歩で迷宮を下っていた。
時間を惜しんで地下11階までひと息にくだっても、大昇降機を使った代金を回収するだけの成果をあげられるかは不明だ。
兎狩りをしたとしても、大昇降機の片道分にしかならない。11階以下の魔物の難易度も報酬も不明な以上、それならば時間は掛かれども、まずは節約しながら様子を見ていこうと決めたのだった。
不必要な戦闘を避けながらも11階までたどり着けば、ランタンもいらないほどの明るさが満ちている。茜色の光に慣れないまま、ふたりは関所を越えて先に進んだ。
上層階と違って、第三階層の通路は天井が高く横幅も広い。それでいて壁は洞窟のように滑らかな岩で、巨大な巣穴に潜り込んだ気分になった。
「……視界が良いのはありがたいですが、どうにも慣れませんね」
「ああ。明るさに満ちた迷宮というのは落ち着かないな。自分が地上にいるのか地下にいるのか、混乱してくる」
「この階には、蟻型の魔物が出るのでしたよね」
地下11階に至るに際して、ミトロフはギルドで情報を収集していた。
「“パラポネラ“と呼ばれる巨大な蟻だな。こいつは単独で行動しているらしい」
「巨大な蟻……」
ぼそりと呟きを返すカヌレの声は平坦である。
「苦手か」
「得意とは言えません。想像するだけで少し寒気がします……ミトロフさまは、平気なご様子ですね」
「カヌレよりも想像力が乏しいんだ。実物を見るまではなんとも言えない」
庭や窓べりで列をなす小さな蟻を見たことはある。しかしそれが巨大化したところを明確に思い描くのは難しいものだ。
ギルドで購入した資料には簡単な絵と、大きさなどの情報が記されていたが、所詮は平面的な欠片でしかない。想像は常に実物を超えるか、下回るものだ。
「噛む力がかなり強いらしい。そして尻の針には毒があるとか」
「それで毒消しを購入されたのですね」
カヌレが背負う荷物袋の中に、ミトロフがギルドの売店で買ったばかりの小瓶が入っている。それはパラポネラ専用に調合された毒消しである。
「即死の毒というわけではないが、かなりの痛みらしい。大の男でも泣き喚く、と書いてあった」
ミトロフは言いながら顔を顰めた。
その情報を誰が書いたのかは知らないが、パラポネラについてよりも、その毒についてのほうが詳しく解説してあったのだ。
パラポネラの毒は大量に摂取しなければ死なないにも関わらず、刺された場所に激痛を起こす。そのために、採取されたパラポネラの毒は拷問用に重用されていたこともある、と。
巨大な蟻の毒針に刺されるだけでも嫌だが、拷問のような激痛を味わいたくもない。効果の良い解毒薬が売っているとなれば、買わない理由もなかった。
「毒針だけでも嫌なんだが、さらに気が滅入るのはパラポネラを倒しても……」
と、ミトロフは足を止め、刺突剣の柄を握った。
茜色の濃淡を描く洞窟のゆるやかな傾斜の壁に、黒い影が張り付いていた。
丸みを繋げた身体に、不釣り合いなほど細い脚が六本。頭からピンと伸びる触覚を絶え間なく動かし、こちらに向けた顔に表情はなくとも、鋭い口をカチカチと打ち鳴らされれば、威嚇しているのは見て取れる。
「……ぞっとします」
後ろでぼそりとカヌレが言った。
まったくだ、と頷いて、ミトロフは剣を抜く。
「ミトロフさま、わたしが」
荷を置いたカヌレが金属の丸盾を構えて前に出た。小刀兎は群れで行動するために、戦闘の際には個別で対応せざるを得なかった。
パラポネラは一匹である。カヌレが盾を、ミトロフが剣を。本来の戦い方ができる。
壁中に繁茂した光苔による穏やかな夕暮れの洞窟に、全身を黒づくめにしたカヌレが丸盾を構えて進む。
パラポネラは鳴き声も上げず、俊敏に壁を走った。壁から跳ねるようにしてカヌレに飛びかかる。
その動きは散々に兎たちで見慣れたもので、比べてしまえばあまりに遅い。
カヌレは近づくのを待ち構え、空中でパラポネラを殴り飛ばした。鈍さと軽さの中間にある衝突音は動物とも金属とも違う。
パラポネラは壁にぶつかり落ちて地面にひっくり返った。
ミトロフから見ても背が寒くなるような衝撃に思えたが、パラポネラはすぐさま起き上がった。地面を這うように接近し、カヌレの脚に顎を突き刺そうと動く。
ミトロフは走ってカヌレを追い越し、パラポネラに剣を振り下ろした。
背に当たった剣は弾き返された。硬質な感触に手の甲まで痺れが突き抜ける。
パラポネラはミトロフを追い払うように顔を振る。牙も角もないその動作に恐ろしさはない。
ミトロフは落ち着いて足を捌いて立ち位置を替え、パラポネラの横に立った。今度は狙い定め、身体をつなぐ節を打つ。
研がれた刃は鋭く食い込み、パラポネラの身体を両断した。
ミトロフは素早く身を引いて様子を伺う。ふたつに分けて地面に倒れたパラポネラの身体を眺め、納刀した。
「パラポネラのギルドでの買取が毒針だけなんだが、素人が毒物を採取するのは難しいし、買取価格もそう高くない」
「……なるほど。危険ばかりで旨味が少ない、ということですか」
カヌレは丸盾を両手で抱え、遠巻きにパラポネラを見つめている。
「毒針に刺されたときにはそこで探索は終了になるだろうし、大昇降機で帰るようなことになれば赤字を覚悟しなきゃいけないな」
魔物と戦うときには常に命の危機があるが、パラポネラに関しては金の危機も加わる。毒針の一撃ですべてがご破産になりかねないし、倒したところで得もない。
ミトロフは折り畳んだ地図を片手に道を進む。パラポネラは壁に天井にと、その姿を見る。
光苔のおかげで通路は見通しよく、遠目にもすぐに見つけることができる。
もし上層階のようにランタンの頼りない灯りばかりであれば、警戒するあまり足取りはひどく遅くなっていただろう。
それでもどうしても、上層階ほど順調に探索が進んでいるとは言えない。
「……すみません、わたしがもう少しお役に立てればよいのですが」
真っ直ぐに伸びた通路を進みながら、カヌレが言う。
「充分すぎる仕事をしてくれているが」
ミトロフの返答にもカヌレは頷かず、フードがゆるりと左右に揺れる。
「パラポネラに打撃は通じないようです」
これまで、カヌレは盾による打撃という攻撃手法を取っていた。
呪いによってカヌレの膂力は人を超えたものになっている。その怪力でもって金属の盾を叩きつければ、たいていの魔物は吹き飛んでいた。
しかしパラポネラは硬く、軽い。どのように盾をぶつけても衝撃が逃げてしまう。
「……剣を握れたら、よかったのですが」
足下にこぼすような口ぶりには、訊かずとも事情があると推測が立つ。
ミトロフはどこまで踏み込んでいいか判断がつかずにいる。
利益を求めるための打算としての交渉術や、当たり障りのない礼儀を守った会話の仕方は学んできたが、こういうときにどんな言葉をかけるべきかは分からない。
声をかけてよいのか、カヌレが抱えているであろう事情に首を突っ込んで良いのか。
そんなことに悩むあまり、近づく月末のことも話題にできていない。昨夜、カヌレの兄に出会ったことも話していない。
「…………」
「…………」
「……剣は、使えないのか?」
「……!」
ミトロフは壁の凹みを見つめながら、思い切って訊いてみた。
そんな必要はないはずなのに、やけに緊張をしている。
カヌレは頷き、先を行くミトロフの背にすすす、と歩みを寄せた。
「じつは、古い伝統に倣って騎士は主君に剣を捧げるのです。もちろん、昔と違って今では騎士も勤めであり雇用としての主従ですが、信頼を証するための儀礼でもあります」
「……騎士物語の王道だな」
「ミトロフさまもご存知ですか」
「幼いころに観劇に行った憶えがある。跪いた騎士が剣を差し出していた」
カヌレはその通りだと頷いた。
「差し出した剣を主が取り、剣先で肩を叩いてから返せば騎士として認めていただけたことになります」
「カヌレもそれを?」
「はい……といっても、わたしの場合は幼いころのことですから、緊張のあまり鮮明に覚えてはいないのです」
「幼いころ、ということは、自分で主を選んだわけではないのか」
ミトロフは話しながらも視線を止めず、上下左右に黒い影がないかを探している。
「家同士の関係といいますか。わたしが生まれたときに、すでに騎士として務めることが決まっていたのです」
「婚約者のようだ」
ミトロフは思わぬところで共感できることを見つけて笑った。
貴族家は子の婚姻を政治的な意味合いで考える。生まれてもいないのに婚約の誓書を、という話すらあるほどだ。
「ミトロフさまにもいらっしゃったのですか?」
「婚約者か? ああ、いた。何年も前に破談になったが」
家の都合で婚約がなされ、事情が変われば誓書が紙切れになる。それもありふれた話である。
「君はまだその主と契約を交わしている、ということか」
ミトロフは話を戻した。
「いいえ。別れの日に、騎士としての役目を解任されました。兄が連れ戻しに来たということは、正式に契約もなくなったのだと思います。捧げた剣も、すでに返されたことでしょう。ですが守るための誓いを立てた剣を迷宮で振るというのは、騎士としての矜持に関わるといいますか……抵抗があるのです」
「もっともな理由だと思う」
貴族が見栄と体裁を重視するように、騎士は誉れを無視できない。その象徴が剣ということだろう。
貴族は、どんなに金がなくとも、来客があれば最高級の茶を出さねばならない。支度金が準備できないために娘を嫁がせられない、という家もある。
靴の中が血まみれであろうと、平然とした顔で美しく歩かねばならないのである。それが無理なら歩く姿を人に見せない。いかに不合理でも、傍目から見れば愚かであろうと、それが貴族としての社会なのだ。
「騎士が一本の剣にかける思いがどれほどのものか、正直、ぼくには分からない。しかしカヌレがそうすべきだと感じたのであれば、それでいいのだと思う」
カヌレの返事がない。
不自然に思って振り返ると、カヌレは立ち止まっている。
迷宮だというのに辺りに満ちるずいぶんと明るい茜色のせいで、カヌレの黒々としたフードの奥に隠れた白い骨のかけらがわずかに見えている。
「……ミトロフさまは、不思議なお方です」
「急にどうしたんだ」
「騎士が剣を捧げるようになったのは、そうしなければ信用されなかったからです」
「昔はよく鞍替えがあったとは聞いている」
カヌレは頷いた。
「……かつての騎士は、戦うための道具に過ぎませんでした。騎士もまた、より良い待遇、より良い領主がいれば、そちらに流れる傭兵のようなものだったのです。それは生き残るための戦略ではありましたが、信頼を欠く行為でもありました。なにがあろうと裏切らぬという誓いのために、剣を捧げる儀式が生まれたのです」
カヌレはそこで言葉を切った。どのように話すべきかを思案するように息を吸って、
「人の信頼を受けるには、そうした証、代償が必要です。なのに、ミトロフさまはわたしを信用してくださっています。人の姿ですらないわたしを」
カヌレは手に持った丸盾の縁を指で撫でる。その手すら、黒い革手袋で覆われている。
「わたしはもう騎士ではありません。この身に呪いを受けて、騎士として生きることはできなくなりました。生まれたときから騎士として生きるために育てられ、呪いを受けたことで騎士としてのわたしは死に……わたしにはもう、役目も居場所もないのです」
ミトロフは顎を撫でる。たぷたぷとした肉をつまみながら、カヌレの兄である騎士と並んで話したことを思い出している。
「きみが仕えていた相手は、呪いを受けたきみを逃したのだったな?」
「……はい。迷宮のあるこの街ならば、呪いを解く方法もあるだろうと」
「何か言われなかったか」
カヌレは空白を選ぶ。意識は過去に流れ、耳に残っているはずの言葉を探す。
「……もう戻らないように、と」
「きみはそれを、解任の言葉だと捉えたのだな」
はい、とカヌレは頷いた。
ふむ、とミトロフも頷く。これまで、カヌレは雇い主のことを明かしていない。言葉を濁すような物言いから、あまり知られてはならない立場の人間だろうと推測は立つ。つまり、地位の高い人間だ。
「主人は、きみを守ろうとしたのだろう。逃したということは、そうせざるを得ない事情があったということだ。きみの主人以上の権力者……父君などが、きみを排除しようと考えた、とか」
「……」
「貴族はとにかく体裁を気にするものだ。どんな事情でその姿になってしまったのか詳しくは知らないが、貴族が喜んで受け入れるものではない」
厳しい言い方だが、それは事実だった。初めて出会ったとき、カヌレが街人に追われていたように、魔物への忌避感は強い。
ミトロフの中に育まれた貴族としての価値観で考えれば、どんなに恩義があっても、スケルトンの姿になってしまった騎士をそばに置くわけにはいかない。
「主人はなにかの事情を知ったのだろう。その時点で、きみを家に戻すという話になっていたのかもしれないし、それよりもひどい可能性もある。どうにせよ、そのままではきみの未来がないと理解したはずだ」
ミトロフはカヌレを見ている。かすかに俯いたフードの頭からでは、彼女の感情は読み取れない。フードの奥にあるのは骸骨であって、それは魔物と変わらない容姿である。
それでも忌避感を抱かず、カヌレを信用できるのは、彼女の性格によるものが全てだった。
「主人はきみを信頼していたんだ。だから助けたかった。しかし、出来ることは限られていた」
ミトロフは貴族としての視点から語る。
「だから内密に逃し、もう戻るなと告げたんじゃないか? ぼくが不思議な人間なのではない。きみが信頼されるのは、きみが良い“人間“だからだ」
カヌレが顔を上げる。フードがわずかにずれている。そこにある白い骨に、カヌレの心は宿っている。
「……ミトロフさまは、やはり、不思議なお方だと思います」
「そうだろうか」
「そうですよ。こんなにも優しいお言葉を、わたしは初めて頂きました」
ふ、ふ、とカヌレは笑う。
その笑い方があまりに暖かなものだから、ミトロフはどうにも気恥ずかしさを覚えて視線を逸らした。
自分で言っておきながら、これで良かったのだろうかと不安にもなる。こうした会話に慣れていないのだ。
それでも、おそらくは自分に出来る精いっぱいでカヌレを逃した主人と、カヌレがすれ違ったままでは、あまりに虚しいと思った。
––––何かが地面を走る音がした。




