太っちょ貴族は渋いワインを飲む
「君のような人間と出会えたのは、妹には僥倖だったな。あれは昔から生真面目でね、このような雑多な街で生活するには苦労も多いだろう」
どうしてぼくは、騎士と一緒にいるんだろう。とミトロフはしみじみと考えた。
どこぞの邸宅の食卓を囲んでいるのであればまだ納得もできたが、ふたりは市場の通りから外れた道端の段差に並んで腰を下ろしている。
ワインの入った木彫りのカップを片手に、膝を抱えて座る鎧騎士の姿はよく目立つ。人々はぎょっと目を丸くして、関わってなるものかとばかりに足早に通り過ぎていく。
そんな姿が見えていないのか、あるいは意図的に無視しているのか、騎士はミトロフに語りかけている。
「人には生まれ持った役目というものがある。王は王になり、騎士は騎士になり、貴族は貴族になり、大工は大工になる。私が望んでも葡萄酒を作れないように、望んでも騎士になれない者もいる」
言って、騎士は木彫りのコップからワインを飲む。もちろん兜は外していない。懐から出した細長い金属の管を兜の隙間に通し、それで吸うように飲むのだ。ちゅうう、という気の抜ける音が聞こえる。
それを隣に、ミトロフもワインを飲む。屋台で安価で売られているのだから期待はしていなかったが、それにしたってあまりに味が悪い。
冒険者としての生活にも慣れてきたが、ワインの質の悪さにだけはいつまでも慣れそうにない。質の悪いワインでは、現実逃避は難しい。
「しかし、屋台の飯というのは美味いな。香辛料がよく効いている」
小さなナイフで切り分けた肉を、騎士は器用に兜の中に差し込んでいる。
連れて歩くうちに、騎士はふと気になった料理に寄っていき、銀貨で買おうとする。その度に店主が困った顔をして、周りの客は遠のく。仕方なくミトロフが払い、いつの間にやら両手がいっぱいになり、こうして道端に座って食事をすることになってしまった。
自分の軽率な行いに後悔はしつつも、たしかに屋台の飯は美味い、とミトロフは頷く。
味付けは単純だが、素材が新鮮で味が濃い。騎士や冒険者のような肉体労働者や、酒飲みに好まれる味付けだ。
「実は私も、こうした街での暮らしに憧れたことがある」
と、急に騎士が言う。
「若さは人を愚かにする。私も家を出て、街で暮らそうとしたことがあった。そこに自分の本当の人生があるような気がしてね」
「愚かさを悪いことのように言うんだな」
「愚かでなければ出来ぬことはある。だが、いつまでも愚かであってはならない。あれはあれで良い経験になった。あの子も、今回のことは学びになるだろう」
串焼きが兜の中に入る。出てきたときには先端の肉が消えている。まるで奇術のように、騎士は肉を食べていく。
「……カヌレの意思はどうなる?」
ミトロフが訊ねる。騎士は一拍を置いて、ああ、と思い当たったように頷いた。
「いまだにその名前には慣れないな。そう、カヌレか。あの子らしい偽名だ」
ふ、ふ、と騎士は笑う。
「意思。それは重要なことだろうか? やりたいと思えばやり、やりたくないと思えばやめる。それが許されるのは幼児まで。逃げてばかりでは人生もままならん」
「……それを選ぶのは本人ではないか? 選んだ末にままならない人生になっても、それが本望ということもある」
ミトロフは言う。自分でもそれは苦しい言い分だと分かっている。
騎士の言葉がミトロフの胸を突いていた。自分を責めるものではないと分かっていながらも、まるで殴られたように感じてしまう。
「街人ならばそれでいい。だが、私は騎士だ。あの子も騎士だ。騎士の家に生まれたのであれば、騎士として生きねばなるまい」
「なぜだ? 生まれながらに家に縛られて生きていかねばならないと? 選ぶ自由はないと?」
「ない」
と、騎士は断言した。
「我らは家を守らねばならない。先祖たちが守り続けてきたものを受け継ぐ責任がある。私たちの我儘で切り捨てるわけにはいくまい。生まれながらに、私たちの生き様は揺るぎなく定まっている。この剣のように」
騎士は肩に抱いていた剣に手を当てた。騎士にとって剣は重要な象徴である。騎士として叙任されるとき、主人と認めたものに忠誠を掲げるは一本の剣である。
「だが……だが、死ぬまで閉じ込められることは、騎士としての役目ではない」
ミトロフは躊躇いながらも言葉を放つ。差し出がましいことだと、よく分かっている。
「家には家の事情がある。貴公が口を出すことではあるまいよ」
「ああそうだとも。それでも言わずにはいられない」
「あの子の雇用主だから、かな」
以前の詭弁を騎士は覚えている。揶揄うような口調に、ミトロフは頷く。
「それに、彼女はぼくの“仲間”だ。それに……勝手に言っていいものかは知らないが、”友だち“だとも思っている。カヌレが不幸になる未来をみすみす受け入れるのは、ぼくが我慢ならない」
「分からないな」
と、騎士は率直に言った。
ミトロフは喉を詰まらせる。分からないと言う相手に、続ける言葉が分からない。
「いや、すまない。貴公の言いたいことはわかる。素晴らしい精神だ」
言って、騎士は金属の管を甲冑に差し込み、ちゅうううとワインを飲み干した。
「だが、その素晴らしい精神……“黄金の精神”だけで、君は物事が思い通りに運ぶと思うのか?」
ミトロフは唇を閉じる。騎士はミトロフを見ていない。通り過ぎる街の人々に、兜は向いている。
「誰もが己の理想を抱えている。そうすればいいと口で言えど、叶うことのないものが多い。争いがなくならぬのはどうしてか? 理想とはぶつかるものだからだ」
兜はミトロフに向いた。隠された顔に表情は見えず、それでもその瞳が自分を確かに見据えていると、ミトロフには分かった。
「騎士として呪いを受け、人在らざる姿で逃げ出した者を、いつまでも野放しにしておくは家の恥。家に戻らぬなら斬れと、父は言っている。それが騎士としての誉れを守る方法だと」
ミトロフは目を見開いた。騎士として生きることの苛烈さを、そこに感じ取る。
「覚悟と力がなければ、我儘を貫くことすらできぬ––––分かるか?」
騎士はコップを置いて立ち上がる。剣を腰の帯に繋ぎ直し、房のついた赤紐で留めながら、言葉をつづける。
「あの子は穏やかな性格でな、我を通すことを恐れる。だが……貴公なら分かるはずだ。よく考えてみてくれ」
含みのある言い方に、ミトロフは眉を寄せる。
しかし騎士はそれ以上はなにも補わず、「食事の礼はまた必ず」と言い残して去っていった。
ガチャガチャと鳴り響く鎧の金属音が聞こえなくなってもしばらく、ミトロフはそこに座ってワインを舐めていた。
生まれながらに、定められた生き方というものがある。そこには誉れも責任もある。たしかに、そうなのだろう。
では、と考える。自分もまた、何かをすべきだったのだろうか。
追い出されたことに従うのみでなく、父に頭を下げて、貴族としての役目を果たさせてほしいと言うべきだったのだろうか。
貴族として、自分は何かを出来ただろうか。
冒険者として、自分はなにをしているのだろうか。
ミトロフとして、なにをしたいのだろうか。
なにも分からない。答えは市場には売っていない。コップの中に沈んでもいない。
ミトロフは残ったワインをひと息に飲み干す。苦味と渋味ばかりがあとに残った。




