太っちょ貴族は石に怯える
なんだってこんな大浴場を作ったのだろう、とミトロフは思った。
迷宮帰りに風呂に入ることは、今では欠かせない習慣になっていた。ミトロフはこの歳まで貴族として生きてきたが、熱い湯に浸かるという経験はほとんど記憶にない。大量の湯を沸かして毎日のように風呂に浸かる、というのは手間も金もかかるし、そもそも習慣がない。
この辺りの気候は乾燥地で、空気はいつもさらさらとしている。汗でベタつくということもないし、運動をして汗をかいたら水浴びをするのが通例だ。
週に二、三度、あるいは行事の前には、もちろん入浴をする。
だが一般的に入浴とは蒸気と薬草で満たした石作りの小部屋で汗をかき、垢を擦ってから水を浴びるというもので、こうして全身を湯に沈めるという入浴は、いまだに貴族には馴染みがないものだ。
しかしこれは蒸し風呂よりもずっといい、とミトロフはすっかり気に入っていた。
隣に男がふたり、ざばんと身体を沈めた。筋肉で引き締まった身体はよく日に焼けている。
「ああ、たまんねえな! 仕事終わりは熱い湯に入らねえと疲れがとれねえからよ」
「汗も流せて助かるしな。おれは気にしねえけどよ、母ちゃんが行けってうるせえんだ」
「うちもだよ、風呂に入らずに帰りゃ、臭えだの服が汚れるだの言われ放題だ。ま、今じゃ頼まれなくたって来るんだけどな」
「違いねえ」
だはは、と笑い声を上げながら、男たちは湯の中を進んでいった。
なるほど、とミトロフは頷く。
肉体労働者や冒険者となれば、大量に汗もかくし汚れもする。市民のほうが入浴に慣れ親しむのが早い。そして一度でもこの心地よさを知れば、否が応でも通うことになる。それはミトロフも身をもって知っている。
大勢の市民に受け入れられることを見越して、風呂好きの王はここまで大きな浴場を作った、ということか。
「王の先見性は恐ろしいな」
「なんだ、今日は政治の話か?」
ミトロフの横にどぷ、っと大波を立てたのは、突き出た鼻筋も凛々しい獣頭の大男だった。湯屋の常連であり、いつ来ても出くわす主のような彼とも、だいぶ顔馴染みになってきた。
今日も今日とて、高い位置にある顔をミトロフは見上げる。
「いや、この湯屋を作った王というのは、実に民のことを理解しているのだと思ってな」
「ほう? 道楽と占い好きの無能王などと嘯く者もいると聞くぞ」
「不敬罪を恐れないのか、あなたは」
ミトロフは呆れたように眉をしかめた。
大っぴらに王政を批判することは禁忌である。場合によっては牢に放り込まれ、棒打ちの刑だ。
しかし獣頭の男は喉を鳴らして笑う。
「なに、風呂では無礼講よ。それに事実は事実。若くして王位を継いでから、星占いのために天文台を作り、王宮では夜毎に楽団の音楽が鳴り響き、天井という天井に絵を描かせる。文化奨励は結構だが、反発する貴族も多いと聞く」
「……あなたは耳が良いのだな」
ミトロフは感心した。と、同時に、やはりこの男は只者ではあるまい、と得心する。
以前、ミトロフはこの男に”知り合い”を紹介してもらった。その男は道楽で”迷宮の遺物”を集めていると言っていたが、会ってみれば明らかに貴族の風体だった。
本人が身分を名乗らず、あくまでも個人の趣味として取引をしたいという様子であったから、ミトロフも探ることはなかった。
貴族と個人的な繋がりがあり、王都での権力に関わる気配を見ることができるのであれば、ただの冒険者にしては器が大きすぎるというものだ。
獣顔の男は正面を向いたまま、黄金の瞳だけをぎょろりと動かし、ミトロフを見下ろした。にっ、と牙を見せるように笑う。
「困ったときに頼れる相手は多いほうがいい。そうやって縁を繋げていくと、自ずと”噂”が集まるようになる」
「……勉強になる」
ミトロフには高嶺の話である。貴族として生きていく上では、その関係の網を広げていくことが必須の能力だったろう。だが、ミトロフは貴族の子息の集まりですら上手く関係を作れなかった。
これまでの茶会、夜会といった社交場での、あまり思い出したくもない失敗の思い出ばかりが込み上げて、叫び出したくなった。むちむちとした腕の弛んだ肉をつねって気持ちを落ち着けようと心がける。
「繋がりの糸を見つけた時は大事にするといい。思わぬところで身を救うことがある。自分だけの狭い見識だけでは分からぬことも上手くいかぬこともあるが、頼れる知己がいるだけでずいぶんとマシになるしな」
さらりとした物言いだが、それはミトロフには金言のように思われた。
「……狭い見識。それは、たしかにそうだ。迷宮のことを、ぼくは何も知らないしな」
湯を手に取り、ばしゃりと顔に叩いた。
「今日も迷宮でいろんなことがあったよ。大昇降機を見た。あれがどうやって動いているのかも知らないし、知り合いに石をもらったんだが、あれが何かもよく分からない。迷宮というのは本当に、退屈しない場所だな」
「ほう、石か。どんな石だ?」
獣頭の男は、不思議と石のくだりにだけ興味を示した。
「どんな石かと言われてもな……何かの原石のようだった。透き通った黄色のような不思議な色味で……」
「おい、それはギルドの職員に見せていないだろうな?」
突然、獣頭の男は声量を落とした。
「あ、ああ。受付嬢に確認しようと思っていたんだが、大昇降機を見た衝撃ですっかり忘れていた」
通常、迷宮内で取得したものはすべて報告する義務がある。それを怠れば厳しい罰則が与えられる。初めて迷宮に入る前に、受付嬢に何度も言い含められたことだ。
「……他人から貰い受けたものも報告しないとまずいのか?」
「通常は問題ない。だがその石は問題かもしれん」
「石が問題? あれは宝石かなにかか?」
ミトロフは首を傾げた。
「それよりも話は複雑になる……知り合い、と言ったな。その石をよこしたのはどんな身分の者だ?」
獣頭の男にふざけた様子はない。ごく真面目に、真剣な話としてそれを尋ねているとミトロフにも分かる。
「……”迷宮の人々”だ。困っているところを助ける機会があってな、その礼だと」
「困ったことになるな」
獣頭の男はそっけなく答え、太い腕を組んだ。
どこかで男たちの豪快な笑い声がしている。湯気の立ち込めるほの暗い湯屋の中で、わんわんと響いている。
「これは噂にすぎない。俺も真実かは確かめていない」
と前置きをして、獣頭の男はミトロフを見下ろした。
「その石は、おそらくは”アンバール”と呼ばれるものだろう」
「”アンバール”? はじめて聞く名前だ」
「そうだろうさ、名付けられて日が浅い。”アンバール”は迷宮で発見されたばかりだ」
「そんな貴重なものを、どうして持っていたのだろう」
ミトロフは独り言のように呟いた。自分に石を渡したとき、アペリ・ティフはその価値を知っているようには見えなかった。
「ギルドは”アンバール”の採掘に、”迷宮の人々”を利用しているという」
「……ほう?」
「ギルドはできるだけその存在を知られたくないのだよ。もし民衆に知られれば、大事になる。あれは人の心を惑わすものだからな」
獣頭の男は憂げにため息をついた。
「ギルドが大っぴらに迷宮で穴を掘り始めれば、騒ぎも疑念も呼び起こす。そもそも闇雲に穴を開けて探すのも効率が悪い。どこに”アンバール”が埋まっているのかを見つけるのが難題なのだ。それも、できるだけ他人には知られないように」
獣頭の男は肩をすくめる。
その真剣な話しぶりに、ミトロフはごくりと唾を呑んだ。
「ときおり見つかる魔物の通り道や、壁の崩れた横穴を掘り進んだ先……そうした場所に住んでいるのが”迷宮の人々”と呼ばれるならず者たちだ。彼らが見つけた”アンバール”をギルドが内密に買い上げているか、あるいは仕事として任せているのかもしれんな。俺の推測に過ぎんが」
ふと、ミトロフの記憶に思い起こすものがある。
かつて迷宮に入って間もないころ、ミトロフとグラシエは浅階で横穴を見つけた。その後に通ったとき、穴はギルドの衛兵が守っていた。それに横道を見つけたことで、ギルドから報酬もあった。
ただの横穴を見つけたにしてはずいぶんと大仰なことだ、とわずかに違和感があった。
それは、その横穴で”アンバール”とやらが見つかるかどうかを懸念したための備えだったのかもしれない。あの横穴は今でも封鎖されているままだ。
「……ううむ、では”迷宮の人々”はギルドと契約し、仕事として迷宮に住んでいる可能性もあるということか」
「さて、どうだろうな」
と、獣頭の男は言って、ざばっと湯を乱して立ち上がった。
「気をつけろ。”アンバール”を持っているなどと知られれば、夜道も落ち着いて歩けなくなるぞ」
言われて、ミトロフの顔から血の気が引いた。
鼻で笑える冗談のようにも聞こえるが、そもそも貴族には暗殺や謀殺が付き物である。家督争いの際に何故か病死や事故死が起きるのは周知の事実である。ミトロフにとって、暗殺や襲撃という言葉は冷たい実感を伴っている。起こりうる事態であると。
「待ってくれ、まだ訊いていない……! ”アンバール”とは何なんだ!? 宝石なのか!?」
さっさと湯を上がっていた獣頭の男の背を呼び止める。男は肩越しに顔だけを振り向かせて、豪気に笑った。
「さてな。自分で調べてみろ。良い経験になる」
言い残して、獣頭の男は湯煙の向こうに歩いて行った。男はいつも長湯である。別の浴槽に浸かりに行っただけとミトロフには分かっている。
けれどああまですっぱりと答えられてしまっては、あとを追い縋って訊ねるようなことはできない。
アペリ・ティフがくれた”アンバール”が何なのか。散々、危険なものだと脅しておいて、肝心なところは教えずに獣頭の男は去っていってしまった。
ミトロフはどぽんと肩まで湯に浸かった。正体のわからない石と、”アンバール”という名前。そして謎だけが手元にある。
ミトロフは腕を組み、喉を鳴らすように唸った。それはどこか獣頭の男にも似ていて。
どこかで男たちが、どっと笑い声を上げている。




