太っちょ貴族は無念を抱く
食事を済ませると、ふたりは迷宮の中の街を抜ける。11階を探索するには準備も情報も足りていない。”羽印”をもらうという目的は達成できたので、ここで地上に引き返すべきだろうというのがふたりの合意である。
だが11階を目指した理由がもうひとつあった。
大昇降機だ。
煙草を咥えた衛兵に訊ねてみると、大昇降機は街を抜けた先にあるという。その区画までは安全が保障されているというので、見学に向かうことにした。
街並みを抜けると、凸凹のある削り出しの壁に、城砦のような木製の関所が据えられている。門扉は開かれているが、衛兵がふたり立っている。行くも帰るも、通る者をチェックしているようだった。
ミトロフとカヌレは並んでいた冒険者たちの最後尾に立つ。それほど厳重な審査もないようで、列はすぐに進んでいった。
「ふたりか? カードを見せてくれ」
初老の衛兵が言う。
ミトロフがカードを出すと、さっと目を通すだけだった。
気怠げに返されたカードを懐に戻しながら、ミトロフが口を開く。
「どうしてここに関所があるんだ?」
「ああ? ……ああ、そうか、ここを通るのは初めてか」
初老の衛兵はチッ、と隙間の空いた歯を鳴らした。苛立つほど職務を気負っているようには見えず、話し方にも立ち姿にも力がない。ただの癖のようだ。
「この先には大昇降機がある。上から来るやつもいれば、出ていくやつもいる。一応は確認しないとな」
「必要があるのか?」
「必要だって? 知るかよ」
チッ、と歯が鳴る。
「やれと言われたことをやる。これがおれの仕事だ。金さえ貰えりゃ、仕事に必要があるのかなんて誰も気にしない。だろ?」
ほら、行け、と。手で追い払われ、ミトロフとカヌレは門を抜けた。
「誰も気にしない、か」
そういうものだろうか、とミトロフは顎肉を撫でた。金さえもらえれば、人は自分の行いの意味すら、考えないのだろうか。それが生活をすること……生きることなのか、ミトロフには分からなかった。
門を抜けるとすぐに円形の広場となっている。ここもまた茜色の光にあふれている。眩しいほどに明るい空を見上げると、不自然に色合いが変わっている場所がある。あそこが天井だ。
門から真っ直ぐ歩いた先は垂直の壁である。しかし穴が空いている。馬車が通れるほどの高さに、横幅では馬車三台程度。地面にはレールが敷かれており、可動式の鉄柵がいまは固く閉ざされていた。衛兵がひとり、柵の前に立っている。
衛兵と向き合うように10人ばかりが列を作っている。冒険者が大半だが、ふたりほど、大荷物を脇に置いた商人らしい姿もあった。
「……どうして、荷物が大きいのでしょう?」
ふとカヌレが言った。
質問の意図が分からず、ミトロフは首を傾げる。
「いえ、すみません。些細な疑問なのですが……冒険者が荷物を多くして帰る理由はわかります。ですが商人であれば、ここで何かを売るために、地上から荷物を持ってくるはずで……」
「商人であれば、迷宮から帰る際に荷物が多くなるのは不自然だ、ということか」
「……はい。何か理由があるのでしょうが、ふと気になってしまいました」
カヌレの言うことはたしかにもっともである。目を向ければ、ミトロフも気になってしまう。
商人のひとりに至っては、厚地の背負い鞄が膨れ上がるほどの荷物である。
商人が迷宮から何を持って帰るのか?
悩んでみても謎かけには答えが見つからない。ひとつ訊いてみようか、とミトロフが足を動かしかけたとき、
––––かん、かん、かん、かん……。
壁に据え付けられたくすんだ金色の鐘が突然に響いた。一定のリズムで繰り返されるその音に、ミトロフとカヌレは周囲を確認する。そうして慌てているのはふたりだけだった。
ごごご、と腹の底を叩くような地響きが遠くに聞こえる。その音は次第に大きくなっていく。
「––––っ」
ミトロフの口から感嘆の吐息が漏れた。
轟音を引き連れながら、壁の穴の中を巨大な箱が下降していった。過ぎ去ってすぐ、穴から風が吹き出し、並んだ冒険者たちの髪を煽った。
「あれが、大昇降機か……凄いものだ。あんなものが地下と地上を繋いでいるのか」
ミトロフの呆然とした呟きに、カヌレもこくこくと頷いた。
穴にはいま、太い鉄の鎖輪が数本垂れて動き続けている。あの鎖輪によって大昇降機は動いているのだろう、とミトロフは推測する。
だが、それをどうやって動かしているのかが、ミトロフにはちっとも分からない。最上階に馬が数十頭といるのだろうか。
あるいは魔法? それとも、これこそが”迷宮の遺物”と呼ばれる不可思議な技術なのか。10階の小部屋で冒険者たちは天才発明家が作ったと言っていた。
どれが正しいにせよ、ミトロフは背中が痺れるような興奮を感じていた。
これほどまでに大掛かりに動く仕掛けを、ミトロフは初めてみた。先ほど落ちるように降っていった箱に人や荷物を載せ、あっという間に移動できるという。
何時間とかけて魔物と戦いながらここまでやってくる必要がなくなり、帰りも安全であり、持ち帰る荷物を気にする必要もない。
迷宮探索をあらゆる点で効率化させてくれる、魔法の乗り物だ。
「––––乗りたい」
ミトロフの胸の底にある少年の好奇心が大いに刺激されている。巨大な構造物というだけで興味深い。あの箱の中はどんな感覚なのか、穴から一瞬で地上に戻るとどんな気持ちになるのか。
確かめたい……。
ミトロフはふっくらと丸い頬を紅潮させ、あたりを見回した。広場の端に小屋がある。看板には切符らしき絵が書かれている。
「ミトロフさま!?」
ミトロフはカヌレをその場に置いて駆け出した。息も絶え絶えに小屋に飛び込むと、小さなカウンターに中年の女性がひとり、退屈そうに座っていた。
「大昇降機はいくらかかる!?」
ミトロフの勢いに目を丸くしながら、女性は少し身を引いた。
「下? 上? 下に行くには”印”がないと発行できないよ」
「地上に戻るのは、いくらだ?」
ミトロフは呼吸を落ち着ける。
「人数と荷物の量によるけど––––」
と、提示された金額に、ミトロフは途端、難しい顔になった。
「……そうか、わかった。ありがとう」
腕を組み、ううむ、と唸りながら小屋を出る。カヌレがそこで待っていた。
「どうでしたか?」
「……高い」
ミトロフの口ぶりに、カヌレはおおよそを把握した。
「それは、残念でしたね」
「乗れないことはない。だが、乗って帰れば稼ぎは赤字になってしまう」
あの大昇降機に乗りたい気持ちはある。しかし1日分の稼ぎを使い、さらに心もとない貯蓄を切り崩してまで乗るべき理由はない。
以前のミトロフであれば、好奇心という大いなる衝動に突き動かされて即決で切符を買っていただろう。
しかし収入も支出も自分で責任を取る立場になっている。帳簿をつけたことで、ミトロフに頭にはこれまで考えもしなかった「資産管理」という言葉が芽生えていた。
先日には剣を手入れし、新しく小盾を購入した。どちらも必要な経費に違いないが、それとて安い金額ではない。金は計画的に使わねばならない。
いま、大昇降機に乗ることは必要だろうか?
「……カヌレ、無念だが、歩いて帰ろう。すごく無念だが」
ミトロフは分かりやすいほどしょんぼりと歩きだした。丸まった背を前に、カヌレは口元を隠して微笑を堪えた。
「歩くのは良い運動になりますよ、ミトロフさま」
声をかけ、カヌレはその背中についていく。
勇ましくトロルと戦い、迷宮で見つけた魔術書をグラシエのために差し出し、家に戻る機会も捨て、貴族の出でありながら今では大昇降機に乗る金額に肩を落とす。
そうしたミトロフの人間性に、カヌレは驚きと微笑ましさを感じている。
もし自分がこんな姿にならなければ、迷宮に訪れることもなく、ミトロフと出会うこともなかっただろう。先行きも見えず、頼れる人もなく飛び込んだ冒険者という生活で、ミトロフと出会えたことは幸運でしかなかった。
この時間を、あの景色を、その背中を、いつまでも忘れないでいられたらいいのに、とカヌレは思う。
そうすればきっと、家に戻ったとしても、温かな思い出を抱いて生きていけるだろう、と。




