太っちょ貴族は新階層に足を踏み入れる
地下11階へ続く階段を降りていく。
階段通路は薄暗く、壁掛けのランタンの灯りが届かない場所もある。九十九折に降りていく階段は、時間も距離も感覚を曖昧にする。
階段の形状はどこの階でも同じだったが、これまでに比べても明らかに長い。息が詰まるような暗闇を深く降りていくと、視界の先が急に明るくなっていることに気づいた。
赤い光。
いや、そんな馬鹿な。と眉間に皺が寄る。ここは地下だぞ、あり得ない。
それでも近づくほどに光は強くなる。迷宮の暗さに慣れていたために、ひどく眩しい。ミトロフは手のひらで光を遮りながらゆっくりと進んだ。
ミトロフは喧騒を耳にした。人の声、騒めく音。それは人の暮らしを象徴するものだ。
階段の突き当たり、壁にぽかりと開いただけの門をくぐる。
途端。
「……なんだ、ここは」
眩しさに目を細めながら、これは果たして幻か夢かと己の見る光景を疑う。
そこは広い……あまりに広い空間だった。地下でありながら天井は高く、そして明るい。ランタンの火の明かりではない。部屋の中は茜色に染まっている。
地下の空間でありながら光があることに、ミトロフは戸惑った。前後左右に視線を回す。目の前を冒険者たちが横切っていく。何人もの人がいる。
そこはさながら地上の商店通りのように露天が並び、冒険者たちが平然と買い物をしている。
視線を遠くへ向ければ、もちろん四方は壁に囲まれている。だが、その壁沿いに簡易的ながらも家屋が並んでいる。それらは宿や飯、武器防具など、冒険者が必要とする店舗であるらしい。
「……迷宮の地下に、街があるのか」
「どうして明るいのでしょうか……まるで日暮れ前のようです」
ミトロフもカヌレも、呆然としてその光景を眺めた。暗く長い穴道の下に、地上で見慣れた文明が想定外の規模で街を作っている。まるで白昼夢を見ているようだった。
「おい」
呼び声に顔を向けると、軽鎧の男が手招きをしている。それはギルドの衛兵であり、彼の背後には二階建ての建物があった。
「お前ら、羽なしだろう? まずはここで手続きしな」
言われ、ふたりは素直に建物に向かった。中に入ると、地上のギルドと同じような光景が広がっている。カウンターがあり、待合の椅子があり、受付嬢が座っている。
広さも人員も、もちろん小規模である。だが地上と変わらない雰囲気がある。人の暮らしのにおいのようなものがある。
いまだに戸惑いを引き連れてカウンターに向かう。地上と同じ制服を着た受付嬢がミトロフたちに微笑んだ。
「どんなご用件でしょう?」
「あ、ああ……“羽“の印がもらいたいんだが」
「初めてのご到達ですね、おめでとうございます。ようこそ第三階層へ。ギルドカードをご提出いただけますか?」
ミトロフは懐を探り、銀板のギルドカードを差し出した。
「お預かりいたしますね。こちらで到達の証に日付と“羽印“の刻印をさせていただきます」
受付嬢はカウンターの横に置かれた工業用旋盤のような機械にカードを差し込んだ。取手をぐいと引き下げると、分厚い金属板が上下にガチンと噛み合う。
はい、どうぞ、と差し戻されたギルドカードには、確かに日付と、垂直に立つ羽毛のような意匠が増えていた。
その呆気なさに拍子抜けを覚えながら、ミトロフは受付嬢に訊いた。
「すまない。すでに訊かれ飽きているだろうが、ここはどうして明るいんだ?」
受付嬢は何百回と繰り返した答えを、揺らがない微笑みで答える。
「この階層には“迷宮光苔“が群生しているんですよ。光苔は常に赤く発光しているんです。おかげで私たちはランタンを持ち歩かずに行動ができるというわけです」
「それは」
と、ミトロフは口籠った。
「それは––––便利だ」
「ええ、とても便利です」
間の抜けた感想にも、受付嬢の微笑みは崩れない。
ミトロフは考えがまとまらない。迷宮の中に現れた街と、夕焼けの光の衝撃にまだ頭が追いついていないようだと、自分でもわかった。
ひとまず受付嬢に礼を言って、ミトロフはカヌレを連れて建物を出た。
ギルドの前に立って、真っ直ぐに伸びる夕暮れの街並みを眺める。地上の市場の一区画をそのまま持ってきたかのような光景である。
「迷宮の中にどうやって街を作ったんだろう?」
「持ってきたんだよ、大昇降機で」
ミトロフの呟きに、予想外にも返事が返ってくる。それは先ほど声をかけてくれたギルドの衛兵だった。壁に背を預け、紙巻きの煙草を咥えている。
ミトロフとカヌレの視線が向かうと、男は退屈そうに白煙を吐き出した。鼻につく刺々しい香りは、安物の葉を巻いたものに違いないとミトロフには分かる。
「進軍するには拠点が必要だろ? 金も手間も人員も割いて、ギルドは迷宮に橋頭堡を作ってんだよ」
橋頭堡。その言葉がミトロフに違和感を想起させた。橋頭堡?
「ここまで潜ってこれたんなら、縦穴と大昇降機があんのは知ってるだろ。あれのおかげで、ほら」
衛兵は指でつまんだ煙草の先で、視界に広がる街をぐるりと囲ってみせた。
「地下へと続く巣穴の途中でも、物資が補給できるわけだ。感謝しろよ」
「……しかし金は取るんだろう?」
衛兵は軽やかに笑った。
「もちろん。地上の3割増しってところだ。良心的だろう? まあ、深くなるほど値段も上がっていくけどな。だが、ここなら飯が食える。身体を洗える。ベッドで眠れる。装備を整えられる。だから冒険者は誰も文句は言わない。金を払う」
衛兵は煙草を深々と吸い込む。顎を上げて吹き出した煙は風もないままにゆらめきながらも、茜色のまだら模様に染まる天井に消えていった。
「ようこそ、新人。歓迎するぜ、ここから先は第三階層“アペロ“だ。せいぜい長生きして金を使え」




