太っちょ貴族はこの先のことを考える
小盾の扱いにも慣れてくると、兎を相手にするのにも余裕が出てくる。小刀兎であれば、落ち着いて動きを見て、盾で防ぐ。剣角兎であれば壁を背に、冷静に避ける。
ガントレットよりは重く、俊敏には動きづらいが、安心感がある。身を守る壁を作れるというのは、戦いにおいてはかなり優位だと知った。
カヌレはミトロフよりも危うげがない。騎士をしていたと聞いた今、見ればなるほど、たしかにカヌレの動きは洗練されている、とミトロフは思う。
ギルドの講座でわずかなりにも盾をどう扱うかという知識を得たことで、カヌレの動きの一端を理解できるようになったこともあるだろう。
兎にも角にも、ふたりは10階に充分、対応できるようになった。地図を頼りに着実に進み、7割ほど進んだ場所にある小部屋に入った。そこは冒険者たちが作った小休止部屋だった。
廊下に区切るように煉瓦を積み上げ、木の扉を嵌め込んだものだ。好戦的な黄土猪やトロルが徘徊している上階では頼りないが、兎だけの10階でならこれで充分に安全が確保できる。
中にはすでに三人組のパーティーが休んでいた。
ミトロフは彼らに手を上げて挨拶をする。友人のように振る舞う必要はなくとも、敵対する意思がないことを示すための友好さを見せることは重要だ。
互いに武器を持っているのだから、否が応でも緊張感は生まれる。互いによく休むためには、最低限の譲り合いと尊重が必要である。カヌレが黒の外套とフードで足元から顔まで隠していることもあって、できるだけ警戒させないために、ミトロフがその役目を担ってもいた。
そこは通路を仕切っただけでの部屋である。長細く、薄暗い。通路の端には火の焦げ跡があり、壁には先人たちが暇潰しに掘ったのだろう落書きがある。そうした人の痕跡が、迷宮の中ではささやかな安心感につながる。
ミトロフとカヌレは三人組のパーティーから距離を置いて腰を下ろした。
カヌレは手慣れた動きで道具を取り出し、お茶の準備をする。ミトロフは床に地図を広げ、さてこれからどうするかと顎を摘んだ。
「もうしばらく10階を回って、兎を相手にしてもいいが……」
盾があれば兎の相手は難しくない。もちろん油断はできないが、強敵ながら実入りの少ないトロルを相手にするよりは気が楽である。耳を集めていれば金も貯まる。
「下に降りることをお考えですか?」
携帯コンロにケトルを載せて湯を沸かしながら、カヌレが訊いた。
「ああ。金がかかるとはいえ、大昇降機が使えるようになるのはありがたい。それに、兎ばかりを仕留めていては、“昇華“も遠くなるだろう」
ミトロフが悩む理由に、迷宮が冒険者にもたらす神秘である“昇華“があった。魔物を倒すことでその命を吸収するから、長く迷宮で過ごすことで身体が適応するから……推測ばかりが横行し、真実は定かではない。
「わたしはまだ“昇華“の経験はないのですが……ミトロフさまは一度、されたことがあるのでしたね」
「ああ。迷宮に入ってすぐ、コボルドを倒したときだ。あれ以来、ちっともそんな気配はないな」
「命を削るような戦いをすることで“昇華“するという話も聞きますが」
「あり得そうな話だ。だが、赤目のトロルとの戦いでも、ぼくらは“昇華“しなかったからな……」
コボルドでは良くて、赤目のトロルではダメな条件を、ミトロフは思いつかない。
「迷宮を探索する上で、“昇華“は欲しい。だが、どうすればいいのかがわからない。数を倒すべきなら、このまま金稼ぎも兼ねて10階で留まる方が良いだろう。そうじゃないなら、さっさと進む方がいい」
ケトルから湯気が上がった。カヌレは熱い湯をカップに注ぐ。小さな金網を丸めた茶漉しに茶葉を詰め、カップの中で抽出する。ケトルの蓋を取り、カップに載せて蒸らす。次に蓋を開けると、カップから湧き立つのは紅茶の香りだ。
ミトロフにカップを渡しながら、カヌレが言う。
「僭越ですが、まずは11階に降りることを目指したほうがよろしいかと」
「ほう?」
ミトロフは熱い紅茶を口に含む。迷宮の中で、カヌレの淹れてくれる紅茶は心を鎮めるのに欠かせない。
「わたしは、月末にはミトロフさまのお側を離れます。それまでに大昇降機を使えるようにしておく方が、後々、ミトロフさまのためになるかと」
ミトロフは視線を落とした。
そうか、そうだな。それを考えなければいけない。
カヌレが去ってしまえば、ミトロフは単独で迷宮を探索することになる。盾を使えるようになったとはいえ、カヌレがいなければ兎の群れの相手は難しい。
荷物もひとりで背負わねばならないし、背後を警戒してくれる人もいない。
カヌレが担っていた役割は、大きい。ミトロフは改めてそのことに気付かされる。
カヌレがいなくなれば、10階まで降りることすら難しくなるかもしれない。彼女がいるうちに大昇降機を使えるようにする……“羽印“を手に入れる。そうすれば、カヌレの代わりを探すのにも都合がいい……。
打算的な思考は論理的な正解を導いている。ミトロフはそれを認めている。それでも気は重かった。本来、下の階へと進むことは、成長と達成の証である。喜ばしいことのはずだった。
だが今となっては、カヌレがいなくなった後に備えるための行為でしかない。
ミトロフはまた、紅茶を飲む。熱い湯が舌を叩く。堪え、飲み込む。口内から鼻にかけて、軽やかな香りが抜けていく。
このまま、立ち止まっていたい。甘えにも似た感情がミトロフの胸にあった。
グラシエが村に戻り、カヌレもまた家に戻る。望んでいるものかどうかは知れずとも、それは彼女たちに課せられた生き方なのかもしれない。
では、ぼくの生き方は?
ミトロフは貴族の三男である。長男がつつがなく家を継ぐだろう。次男もまた健在だ。彼らは立派に貴族としての生き方を進めている。だが、三男ともなれば、役目も居場所もない。
高位貴族であれば、子に分ける領地もあれば、家同士を結ぶために嫁をもらい、あるいは婿に来てくれと声もかかろうが、バンサンカイ伯爵家は豊かではなく、新興家であるために他の伯爵家と比べても家格が低い。
ミトロフが家にいても、行き場所も使い道もないのだ。
これで特筆すべき才能でもあれば身の立てようもあったろうが、食う寝るに専念していたミトロフといえば、堕落した貴族の子の手本のようであった。
唯一、剣の才だけは特筆すべきものもあったが、貴族が剣を持つのはすでに時代遅れであり、では決闘だ、と意気込む者は廃れて久しい。
迷宮で冒険者として剣を振るうことで、ミトロフはわずかばかりに水を得た魚となった。戦うことは、ミトロフ自身も予想外ながらも、自分に適した環境である。だがそれとて、いつまでも未来の広がる道ではないように思える。
出会ったものはやがて、それぞれに定めた道、あるいは背負った者のために、迷宮から離れていく。
ミトロフはひとり残り、貴族が捨てた決闘のためのレイピアを握って迷宮に潜り、冒険者を名乗って生きていく。日銭を稼ぎ、生活の向上を目指し、美味いものを食って、広いベッドで寝る。
それこそが自分の望んだおおらかな人生であるようにも思えるが……。
答えも見えない考えに足が沈むような恐ろしさを感じて、ミトロフは首を振って切り上げた。
「そうだな、下を目指そう。まずは11階に降りて、”羽印”をもらう」
「かしこまりました」
カヌレが何かを言いたげな沈黙を握った。しかしそのまま、何も言わず、荷物を片付け始める。
ミトロフもまた、何かを言うべきに思える。けれどかけるべき言葉を、ミトロフは知らない。貴族の男として淑女をどう扱うべきか、その方法は教えられたが、その全てがいまに役立たないことだけが明白だった。




