太っちょ貴族はお礼をもらう
敵か、と身構えるも、近づけばそれが人の形をしていることが分かる。足を止めずに行けば、影は鮮明になっていき、獣人の少女––––アペリ・ティフだと分かった。
「本当にぼくが来るのが分かったのか」
ミトロフは驚きながら言う。せんだっての別れ際、ミトロフはアペリ・ティフにハンカチーフを渡した。においが付いたものがあれば、ミトロフを探すことができるからと彼女が言ったからだ。
「……におい、分かりやすい」
「それは少し複雑な気分だ。臭くないといいんだが……怪我はもういいのか?」
アペリ・ティフが脚に負った傷は命に関わるほどではなかったが、すぐに完治するほど浅くもない。
「……歩ける。大丈夫」
「そうか。それなら安心だ」
アペリ・ティフは居心地悪そうに身体を動かした。それからおずおずと警戒しながらも近づいてきて、腰につけていた小袋を外し、ミトロフにつきだした。
「約束したお礼」
「君は義理堅いな」
「ぎりがたい……? 約束したことを守るのは当然」
それはそうだが、とミトロフは目を細めた。
約束を破る人間もいる。だから契約書だ、公証人だと、約束を破らせない法がある。
ミトロフはアペリ・ティフが約束を守らずとも構わないと思っていた。期待していなかった、とも言える。だからこそ、本当に彼女が現れたことに驚いたのだ。
「……”長”が、これなら価値があると言ったから、ミトロフにあげる。私が見つけたぶん」
ミトロフはアペリ・ティフから小袋を受け取った。石のように固く、重いものである。中身も気になるが、それよりも気になる言葉を耳にした。
「”長”? 君たちには統率者がいるのか」
「……?」
ミトロフの小さな驚きは、アペリ・ティフには伝わらなかったらしい。
「君たちは、何人くらいで暮らしているんだ?」
「……分からない。いっぱい」
いっぱい、とミトロフは繰り返した。
アペリ・ティフは”迷宮の人々”と呼ばれる、迷宮の住人である。彼女が”長”と呼ぶ人間がいる。いっぱいの仲間がいる。
ミトロフが気付かぬだけで、迷宮には冒険者や魔物の他に、隠れ住んでいる人々がたしかに、それも大勢いるようだった。彼らはコミュニティを作り、地上とはまた別の規範によって生活をしているのだろう。
ミトロフは、ギルドで販売されている迷宮の地図を手に道を進んでいる。しかし現実を紙きれに落とし込むことはできない。
立ち入り禁止だとばかりに板の張られた横道もあるし、鉄柵で閉じられていたり、地図には書かれていないような細い道もある。
また、魔物だけが知っている隠し道が各階を繋いでいるという噂はほとんど現実的である。ミトロフも壁に隠された小道を発見した。トロルが使っていた隠し道も見た。
この迷宮のどこかで、地上に戻ることもなく人が暮らしている……そんなこともあり得るのだと思うと、ミトロフは不思議な気持ちになる。
少し前までは、屋敷の中、小さな社交界、そんな場所しか知らなかったのだ。世界は広い。まるで大空を見上げているように、自分のちっぽけさを思い知るような感慨だった。
「どんな暮らしなんだ、君たちは? 魔物に脅かされてはいないか? 物資はどうやって手に入れているんだ?」
「ミトロフさま」
急に興奮した様子のミトロフを、カヌレがさっと宥めた。アペリ・ティフが驚いた様子で身を引いていた。
「……すまない。好奇心を刺激されてな」
アペリ・ティフは首を傾げた。
「ミトロフは、わたしたちに興味がある……?」
「ああ。ある」
「難しいことは”長”じゃないと、分からない」
「そうか、そうだな。いつかその”長”に会う機会があればいいんだが」
「……変な人間?」
アペリ・ティフは小首を傾げた。頭上の獣耳がぱたりと揺れる。
「そうですね、少し変わってらっしゃるかもしれません」
とカヌレが代わりに頷いた。
「でも良い人間なんですよ」
「ミトロフは良い人間。わかる。私を助けてくれた」
アペリ・ティフはミトロフに一歩近づき、その顔を見上げる。
「お礼、まだ足りない。また持ってくる」
「お礼はもう充分だ。これで」
右手に持った小袋の中身はまだ知れないが、アペリ・ティフがミトロフとの約束を守り、会いにきてくれたこと。それ自体にこそ価値があるように思える。物では得られない豊かさをもたらしてくれた、とミトロフは思っている。
けれどアペリ・ティフは首を横に振った。
「いのち、助けてくれた。傷、手当の道具をくれた。アペリ・ティフはまだ感謝を示す」
ミトロフの返事を待たず、アペリ・ティフは踵を返した。通路の奥に歩いていく後ろ姿を、ふたりは見送った。
「……律儀な性格だ」
「“迷宮の人々“は恐ろしくて近寄り難いなどと聞きますが、やはり噂というのは当てにならないものですね」
「恐ろしい?」
「はい。迷宮で生活をするなど、地上に住む者には想像もできません。魔物をものともしない力を持っているのだとか、魔物と会話ができるとか、手懐けているという話もあります」
なるほど、とミトロフは頷いた。
迷宮に潜っているミトロフにも想像が難しいことだ。地上からの視点ではますます理解できないだろう。無知は想像を育み、想像は誇大化する。
「少なくともアペリ・ティフは、恐ろしくて近寄り難い、ということはないな」
ミトロフは呟き、手に持った小袋を眺めた。麻の布で包み、余った生地を紐で結んだだけのものだ。紐を解いて布を開くと、拳大ほどの石がある。
壁の灯りにかざしてみると、蒸留酒を固めたかのように黄色く、透き通っている。
「原石、でしょうか」
「どうだろう。これほど大きなものがあるとは思えないが……」
ミトロフは宝石に馴染みがある。しかし磨かれて加工された美術品としての宝石は分かれど、鉱山から掘り出されたばかりという風の原石から、宝石の種別までを言い当てるのは難しい。
ミトロフは首を傾げてから石を包み直し、丁寧に紐で結んだ。




