太っちょ貴族は同業者と談笑する
「今はまだいいが、10階から先となると、時間がかかって仕方ないだろうな」
ミトロフは空いた場所に荷物を下ろしながら、カヌレに言った。
「そうでしょうね、目的階に行くだけでも日が過ぎてしまいそうです」
ようやく地下10階にたどり着いたところである。階段前の小部屋は他の階に比べても広く、いつ来ても大勢の冒険者が思い思いに休んでいる。
落ち着ける壁際に人が集まるため、中央はたいてい空白地になっていて、ロの字型に冒険者たちが陣取る形である。
浅い階層では休憩している冒険者の数も少なく、ほとんどは布を敷いて座る程度だった。しかし10階の休憩広場では、隅にテントを張って休んでいる者もいれば、すっかり装備を脱いでしまって平服で食事をしている姿も見かける。すぐに帰るつもりがない証である。
迷宮は深く、道中には魔物が蔓延り、地上との行き帰りには時間が掛かる。深くまで潜るとなれば、何泊という長旅になってしまうだろう。
延々とこの地下迷宮から出られないとなると気が滅入ってしまいそうだ、とミトロフがぼやくと、隣で休んでいた冒険者が笑った。
「なんだ、坊主、知らねえのか」
中年の男である。短く刈り込んだ髪と顎髭には白いものが混じっている。目尻は下がり、瞼は眠たげだった。それが男の雰囲気を柔らかくしている。
「知らない、とは?」
「10階を攻略すれば”羽印”がもらえるのは知ってらあな?」
「ああ、受付嬢が教えてくれた。それが一人前の区切りだ、と」
「じゃあなんで”羽印”だと思う?」
それは、とミトロフは言いかける。初心者のことを“羽つき(ルービー)“と呼ぶ。ルービーという鳥は、特徴的な赤い羽が抜け落ちると成鳥になる……。
男はミトロフの言おうとしたことを先読みしたように首を横に振った。
「違う違う。10階を超えたら、冒険者は文字通りの”羽”を手に入れるのさ」
まるで謎かけである。それはどういう意味か、とミトロフが首を捻ると、短髪の冒険者の向こう隣に座っていた男が口を挟んだ。
「おい、また新人に”講座”を開いてやってんのか」
短剣に砥石をかけながら、その男はミトロフに顔を向けた。
「こいつはな、ここで座って待っちゃ、新人が来るとその話をするんだ。どういうことですか? 教えてください! そう言われるのが楽しみでずっと10階にいるんだよな?」
「おい、俺を性根の腐った変人みたいに言うんじゃねえよ!」
「自分のことをよく分かってるじゃねえか」
「うるせえ! 俺みたいな剣士は剣角兎の相手が苦手なんだよ!」
「じゃあ早くパーティーメンバーでも見つけろよ!」
「仕方ねえだろ! こんな中年のおっさんが声掛けたら怪しいんだから!」
「かーっ、自信も魅力もない中年ってのは情けないねえ!」
普段から親しみ深いらしい。ふたりは立ち尽くすミトロフとカヌレのことなど気にした様子もなく、言葉の応酬を激しくした。
「大昇降機があるんだよ」
ちょうど通りがかった獣人の女性が軽く教えてくれた。
「悪いね、会話が聞こえちまってさ。ほら、耳がいいから」
と指差すのは、頭部からぴょこんと生えた獣耳である。
「あ! なんで俺の代わりに教えてるんだよ! ばか!」
「ばかはあんたたちだろう。新人を捕まえてなにを下らない話を聞かせてんだい。若い子はあんたらほど暇じゃないんだよ。働きな」
うわ、とミトロフが一歩引いてしまう舌鋒だった。男たちは途端に熱気を収め、しゅんと首を垂れてしまう。
「ひどい……ひどすぎる……気にしてるのに……」
「そこまで言わなくたって……なあ……?」
「そうやってふたりで仲良く傷を舐め合ってな」
一瞥で切り捨てて、獣人の女性はミトロフに向き直った。表情はころりと変わり、人好きのする軽やかな笑みを浮かべている。
「あまり知られちゃいないが、迷宮には縦穴があってね、地上には大昇降機が据えられてんのさ。もちろん金は取られるが、深いところに行くにはこれほど便利なものはない」
ほう、とミトロフは感心した。
「それは、魔法で作られたものなのか?」
「さあて、小難しいことはあたしには分からないよ。使えるから使う。そんなもんさ」
「遺物だよ、遺物」
と、短髪の男が言った。
「あんなすっげえもんを動かすんだ、古代人の叡智に違いねえよ」
「まるで乗った事があるみたいに言うね?」
「お前さ、俺にひどくない?」
短髪男のしゅんとした横顔を見て、短剣を持った男が「だはは」と笑った。手の中で器用にくるりと回し、指で研ぎ具合を確かめながら、説明を継いだ。
「ありゃギルドのお宝のひとつだからさ、詳しいことは誰も知らねえのよ。”遺物”で動いてるだとか、天才が作った”ジョウキ”だとか、噂は聞くけどな。大事なのは、下まであっという間に降りれるってことだよ」
「金を払えばね」
と獣耳の女性が言う。
「そう、金を払えば歩く必要がない。まるで羽が生えたように、上から下へ、下から上に思うがままってわけだ」
「なるほど、それが”羽”というわけか。勉強になる」
ミトロフの堅苦しい言い方に、三人の冒険者たちは顔を見合わせた。それぞれに一瞬、目を交わし、しかしそれで終わりである。
冒険者というのは誰もが何かしら事情を抱えているものである。深くは訊かない。それが冒険者同士の暗黙の了解でもあった。
「ま、いくら10階を越えたって、時間さえ掛けりゃ往復できるんだ。大昇降機を使わねえ奴らも多いんだぜ」
気を取り直したように短髪の男が言う。指さしたのは、小部屋の向かいに張られたテントである。
「高いからなあ。使うにしても片道分だけで済ませるやつが多いよな」
「そりゃタダにしてごらんよ。あんたみたいな能無しが樽いっぱいに乗りこんで落っこっちまうさ」
「言い過ぎじゃねえか!?」
獣耳の女が笑い、短剣の男が笑い、揶揄われた短髪の男も言い返しながら笑っている。
それを見て、ミトロフもまた笑った。後ろでひっそり、カヌレの堪えたような笑い声がしているのも、ミトロフは聞いている。
ミトロフとカヌレは休憩がてら、男たちと談笑を楽しんだ。三人は熟練の冒険者というわけではなく、転職してまだ数年と経っていないらしい。
それでもミトロフよりははるかに迷宮に慣れている。ミトロフが未だ手放せない緊張感を、男たちは見事に捨て去っていた。それは悪い意味ではなく、休むべきときにはしっかりと休む、という意識の切り替えが上手いのだ。
ミトロフは剣でも礼儀作法でもダンスでも、必ず家庭教師から教えを受けて育った。指導者がいて、それに従えば上達した。しかし今、冒険者がどうあるべきかという教えを授けてくれる教師はいない。
あえて言えばグラシエに基礎を教わりはしたが、それはあくまでも序の序。いまだに知らぬこと分からぬことの方が多い。先達とこうして話すことは、ミトロフにとっても学びの多いことだった。
三人は午前中に探索をしていたとのことで、まだしばらく休むという。
では、また。と、再会を約束する挨拶を交わして、ミトロフとカヌレは迷宮の奥へと進むことにした。
人の気配に溢れ、光に満ちた小部屋から離れるほどに、少しずつ心細さが染み込んでくる。そこから先は魔物の領域であり、弛んでいた緊張の糸を引き締め直す必要がある。
ミトロフはいつでも抜けるようにレイピアの柄に右手を添える。視界の中に動くものがないかと目を凝らしながら、カヌレに話しかけた。
「大昇降機か。迷宮にはすごいものがあるんだな」
「はい。わたしも驚きました。どんな原理で動くものなのか……使えるようになれば、探索も楽になるでしょうね」
「ああ。少なくない金がかかるらしいというのが、悩みどころだが」
難しい顔で言うミトロフの声に、カヌレは鈴を転がすように、柔らかく笑った。
「そうですね、家計簿に書く項目が増えてしまいますね」
「今のところはちゃんと記録が続いている。食費が家計を圧迫していることが判明した」
カヌレはまた笑う。
「そう笑うな。ぼくは本腰を入れて痩せる必要がある気がしている」
「そこまでお気になさらずとも。今のミトロフさまも素敵ですよ」
カヌレの言葉に慰められはするが、その言葉に甘えてしまっていいものかと悩ましい。
冒険者となってミトロフの運動量は飛躍的に増えたが、体重はあまり減っていない。
「迷宮帰りの食事は、美味すぎるからな……」
そう、美味いのである。
迷宮の中で汗を流し、命を削り、疲れきった精神と肉体。そこにぶちこむ味の濃い屋台の飯は、まるで命が求めていたかのように美味い。そして胃袋に食い物を放り込む感覚のなんと素晴らしい満足感!
はじめこそ食卓に並べられるような貴族の、いわばお上品な食事との違いに違和感もあったが、今ではミトロフもすっかり庶民の食事に慣れてしまった。
塩気も香辛料も強い味付けは、迷宮で労働をしたあとの身体には不可欠なものである。
冒険者は迷宮でのひどい緊張と精神の昂りを解消するために、特定の行為や行動に過剰にハマる傾向がある。ミトロフの場合は元々、食うことに集中していたこともあり、迷宮帰りには必ず暴食してしまう。
夜な夜な、腹を叩いてはわずかに後悔してはいたのだが、その暴食ぶりが家計簿に数字となって記録してしまったがために、理性が大義名分を握ったように自分の本能を非難している。食い過ぎだぞ、と。
しかしミトロフは食べることが好きなのだ。ほどよく、と制限することは、なかなか難しい問題だった。
今日こそは節制した食事にするべきかと悩んでいたそのとき、廊下の先に浮かぶ影に、ミトロフが気づいた。




