太っちょ貴族は骨少女の事情を知る
カヌレの兄を名乗る騎士と出会ったことで迷宮の探索は切り上げることになった。
地上に戻ってきて、ミトロフとカヌレはギルドから場所を移した。かつてグラシエが泊まっていた宿の、小さな食堂の端に席を取る。他人に訊かれたくない話をするのに、他に良い場所をふたりは知らない。
太陽の沈みはまだ夕方前である。薄暗い食堂にはほとんど客もおらず、対角のテーブルでひとり、エルフ族の男が酒を飲んでいるだけだった。
ミトロフは赤ワインと兎肉の料理を頼んだ。迷宮から持ち帰った小刀兎の肉を渡し、宿の主人に調理を頼んだのだ。これで安く、満足いくまで肉を食うことができる。
無愛想な宿の主人が赤ワインのボトルと、グラスをふたつ持ってきた。ミトロフはふたつともにワインを注いだ。
カヌレは呪いを受けて以来、飲み食いができなくなっている。それでも、空のグラスを目の前に置くことは、ミトロフにはためらわれた。
「……改めて、ミトロフさまにはご面倒をおかけしました」
カヌレの謝罪に、ミトロフは頷きを返した。面倒をかけられたとは思っていないが、そこから否定していては話も進まない。
「あれは本当にカヌレの兄君なのか?」
「……はい、間違いなく」
「騎士に見受けられたが、君は騎士爵だったのか?」
カヌレはミトロフの質問に頷き、ぽつぽつと言葉を落とした。
かつては国と国が争い、国の中でもまた対立する貴族たちが領地を奪い合う時代が長く続いた。
多くの若者が兵士となり、際立った勲功を挙げた者は騎士という称号を得た。しかしそれも今は昔のことだ。
世は治められ、戦よりも外交的な駆け引きが主流となり、剣と鎧の騎士の舞台が廃れて久しい。王立近衛騎士団は存在するが、彼らが戦場に立ったことは数十年以上ない。
それでも騎士は未だ廃れず、準爵家––––騎士爵と呼ばれる位階が創設され、選ばれた家々が騎士を世襲している。
「騎士爵の家に生まれた女は、淑女としての振る舞いと、武術とを学びます。そして年ごろになれば、準騎士として貴族の女性たちの近衛を兼ねた従者になるのです」
「聞いたことがある。貴婦人たちにとっては、女騎士は社交界で身を飾るために欠かせぬと」
見目美しく、所作抜かりなく、そして武勇優れる女騎士を傍に置くこと。それが社交界での“流行”なのだ。
騎士物語はいつの世でも人の心を惹きつけてやまない。勇壮な騎士に剣を捧げられ、忠誠を誓われることは、今でも変わらず貴婦人たちの憧れとなっている。
騎士は爵位を得た代わりに、末代まで国へ忠誠を誓っている。かつては気高き騎士道と己の剣に生きていた騎士は、今では自らの家を守る責任を負っている。すべては幻想と消えている。
だからこそ貴婦人たちはその幻想を重ね合わせ、飾り立てた女騎士を身近に置くのだ。男装をさせることも珍しくないという。
もちろん男子禁制の場における護衛の役割という実利もあるが、淑女たちが悪漢に襲われる機会はそうそうない。
「わたしも、とある方の従者をしておりました。詳細は語れませんが、その方を庇うかたちで、わたしが迷宮の遺物の呪いを受けたのです」
「……なるほど。それで放逐されたのか」
貴族は面子を重視し、醜聞を嫌う。それは騎士を側に置く側も、騎士を送り出す側も、どちらの思惑も関わってくる話だ。淑女を守って呪いを受けた騎士、という美談だけでは片付けられないのが貴族の社交会であろう、とミトロフは考える。
カヌレは言い淀むような調子で、ゆっくりと言葉を選んだ。
「少々、混み入った事情がおありの方なのです。それに……このような姿になってしまっては、お側に仕えるわけにもいきません。父に家に戻るように言われました。家の恥を晒すことになるから、と」
家の恥、という言葉を、ミトロフは強く理解できる。
貴族の在り方は、個ではなく家だ。先祖が代々と守ってきた領地、地位、名誉……それらを守り、次代へ託すこと。それこそが家の大事なのだ。
家の価値を下げるとなれば、個を切り捨てることも選ぶ。それが貴族家の当主の役目でもある。
「家に戻れば、おそらく一生、わたしは外に出られません。女騎士たる者がこのような身なりでは、どこにも役目はありませんし……」
そんな馬鹿な、とは笑えない。ミトロフは貴族の実情を、その容赦のない価値観を知っている。
事実、貴族家にはどこも、座敷牢や地下牢がある。それは罪人を入れるためというより、他家に知られては困る一家の恥者を飼い殺すための牢なのである。
貴人を守った功績はあれど、呪いにより魔物と同じ姿になってしまったカヌレを放任しておくわけにはいかない、というのが家長の判断であり、それを間違っているとは言えない理屈を、ミトロフも理解できた。
あの騎士爵には魔物の子がいる––––悪意のある噂が広まれば、問題は家の存続にすら関わる。
カヌレの肩には、カヌレ個人だけでなく、ここまで連綿と続いてきた騎士爵の家名が重石となって乗っているのだ。
「……お嬢さまが、わたしを逃がしてくれたのです。迷宮街に行けば姿を隠せる、迷宮の中ならば姿を戻す手がかりもある、と。わたしはそのお言葉に甘えてしまいました」
ですが、と、カヌレは視線を下げた。
目の前に置かれたワイングラスを見つめている。テーブルの真ん中に置かれた小さな蝋燭が、グラスの中のワインをささやかに照らしている。
「この生活が長くは続かないと分かっていました。期待よりは短く、思っていたよりも長く、ミトロフさまと冒険ができたこと、わたしは生涯忘れないと思います」
本当にありがとうございました、とカヌレは深々と頭を下げた。
まるで今生の別れじゃないか、とミトロフは思う。
もう二度と会えないわけではないだろう、元気をだせ。
手紙を送ってくれ。ぼくも送る。
今からでも遅くない。別の街に逃げればいい。
ミトロフが口にできる言葉はいくつもあるが、その中に価値のあるものは何ひとつ見つけられなかった。すべてが虚しく、すべてが無意味だった。
店主が鍋を持ってやって来て、ミトロフの前にどんと置き、何も言わずに戻っていく。
鍋の中身は焼いた兎肉にグレービーソースを掛けたものだった。貴族の食卓にも上がるほど一般的な、ミトロフにも馴染み深い料理だ。
ローストした兎肉はサイコロ形に切られている。兎肉を焼いた時の肉汁と、よく炒めた玉葱、それにアーモンドミルクと香辛料を加えて、汁がとろりとするまで煮込んだものである。鍋の真ん中には蒸しジャガイモを潰したものが小山になるほど放り込まれていた。
ミトロフが持ち込んだ兎肉をすべてこれに使ったようで、鍋には肉がぎっしりと詰まっている。
ミトロフはポケットから食事用のナプキンを取り出し、それを広げる前にふと見つめた。
料理のソースが服を汚すのを防いだり、食後に口や手を拭うための布など、屋台にも食堂にも置いていない。ミトロフはナプキンを持ち歩くようになっていた。
ミトロフは自分がもう貴族ではなく、冒険者になったのだと思っている。
しかし食事のときにはナプキンを使う。冒険者はこんなものは使わない。
身体や感覚に刻まれた生き方を変えることは、難しい。
カヌレに、逃げてしまえ、自由に生きればいいと簡単には言えない。そんなことは彼女も分かっている。
分かった上で、その選択肢を選べない自分を知っている。
テーブルマナーなど誰も気にしない食事ですら、ナプキンを広げてしまう自分のように。
「––––今日は途中で切り上げてしまったからな。明日も迷宮に潜ろう」
カヌレが顔を上げた。屋内でも脱ぐことのないフードのために、カヌレの表情は分からない。目の前の蝋燭の火が照らしてくれるのは、せいぜい、彼女の顎の骨の白さだけである。
カヌレがどんな感情を示しているのかを、ミトロフは読み取れない。それでも何かを伝えたいと思っている。
「ぼくと君の契約は月末までだと、兄君は了解した。それまでは誰になんと言われようと、きみはぼくの仲間だ。いてくれないと困る」
「……はい」
それきり、ミトロフはもう何も言わず、ナプキンを襟首に差しこんで兎肉に取り掛かった。
実家で専属の料理人が作ったものとは、何もかも違う。香辛料は少なく、質も悪い。砂糖もほとんど入っていない。じゃがいもは朝にまとめて潰したものなのだろう、冷え切っていてボソボソした舌触りだ。火を入れすぎた肉は硬く、下処理をしていないせいで筋張っている。
カヌレは背筋を伸ばして膝に手を置き、ミトロフが汁ひとつ跳ねさせず肉を平らげていくのを見つめている。
会話もなく、ミトロフが食器をぶつける音を鳴らすこともない。咀嚼音もしない。身体に染み付いた所作は、場末の宿屋の食堂には不釣り合いなど優雅だった。
蝋燭がときおり隙間風に吹かれ、その度にふたりの影がゆらめいた。




