太っちょ貴族は騎士と出会う
「……ミトロフさま、そのお顔は」
翌朝に顔を合わすなり、カヌレはおずおずとミトロフに訊いた。戸惑ったようにも、動揺しているようにも見えるのは、ミトロフの顔に見覚えのない青痣ができていたからだ。
唇の端や目の周りであれば、喧嘩で殴り合いでもしたのかと思われるだろうが、ミトロフの場合は顔の中心を真横に一筋、綺麗な直線の痣である。
「……ギルドで小盾の講座を受講してな。講師の棒切れを受け損なった」
「それは、ずいぶんと熱の入った講座だったのでしょうね……?」
育ちも良さそうなカヌレらしい表現に、ミトロフは唇を曲げた。
「熱の入った? とんでもない。あれは講座という名のいびりだ」
顔だけでなく、身体のあちこちに痣がある。それがじくじくと痛むたびに自分の不甲斐なさを情けなく思うやら、ソンの卓越した棒の扱いと意地の悪さを腹立たしく思うやら。
「いびり……? でしたら、ギルドに苦情などは? そうした行いは是正されるべきかと思いますが」
「いや……手法に不満はあるが、目的はしっかり果たしてくれている気がするからな……ぼくも対応に困るところがある」
「はあ」
釈然としないカヌレに、ミトロフもまた説明に苦慮する。
ミトロフはあちこちに痣をもらい、地面を転がり、罵られ、汗と鼻水まみれにされた。
しかし、最後にはたしかに、ソンの振る棒切れを小盾で受け、躱すことが身についたのだ。ちゃんとした成長を自分で実感できているからこそ、怒るにも怒れない。
「とにかく、実戦で試してみよう」
ミトロフはガントレットの代わりに左腕に巻いた小盾のベルトを締め直した。
ソンの棒切れとは勝手が違うと思ってはいたが、10階の探索はミトロフの想像を超えて楽になった。
小刀兎に対する最適解は、やはり小盾だったのだ。
飛んでくる小刀兎を、小盾で弾く。あるいは叩き落とす。弾き返す。
兎は小さく、軽い。盾で真っ向から受け止めても、腕が痺れるようなこともなかった。
ソンの棒切れの縦横無尽な動きに比べれば、直線的に飛んでくる小刀兎を見極めることは難しくない。どこに飛んでくるかを見て、冷静に小盾を扱う。
痣だらけになるほどの特訓は、しかし確かにミトロフに小盾を扱うことを覚えさせていた。これでは苦情も言えないな、とミトロフは苦笑する。
「お怪我はありませんか?」
小刀兎の群れを討伐して、ひと息。カヌレがミトロフに寄ってくる。
ミトロフは両手を広げて見せた。
「傷ひとつない。小盾は便利だ。研いでもらったレイピアも鋭い」
「それはよろしいことですね。わたしも安心できます」
カヌレの声もどこか明るい。今までミトロフが傷だらけになりながら暗い顔で探索を続けているのをそばで見ていたのだ。
「カヌレにも心配をかけたようだ。すまない」
「いいえ。ですが、油断なさいませんように」
「気をつけよう」
カヌレの注意する言葉には、どこか揶揄うような明るさがある。ミトロフも笑って頷いた。
小盾といえど、安いものではない。
特にあの老婆は中途半端な品物は売らない。信頼に足るだけの質を重視すれば、値段も比例する。そこらの防具屋で買う安盾よりも随分と金は掛かったが、ミトロフは間違った買い物ではないと思っている。
この小盾に命が懸かっている。金で安全が買えるのであれば、惜しむ理由はない。
ただし、懐が寂しくなったことを悩む気持ちはまた別である。小盾を存分に活用し、しっかりと金を稼がねば……とミトロフは気を引き締めた。
「そういえば、カヌレの盾はずいぶんと質が良さそうだな」
「そう、ですね。しっかりした物です」
カヌレが背負っている丸盾は、ミトロフの小盾よりもずっと大きい。小柄なカヌレが構えれば、上半身をほとんど隠してしまう。
ミトロフの盾が木に革を貼った物であるのに対し、カヌレの盾は黒々と輝く金属である。羽ばたく鷲の見事な意匠も施されており、無骨な防具の中に優雅さが取り入れてあった。
それはどこで……と言いかけて、ミトロフは口をつぐんだ。
ミトロフは貴族である。貴族には教養が求められる。幼いころから芸術について学び、美術品を鑑賞し、”美しいとはなにか”を語るためのに感性を磨く。
故に、ミトロフの貴族としての目が”美しい”と感じるのであれば、その丸盾は並の品ではない。その出所を訊ねるというのは、カヌレの身分や事情に深く関わることになると察したのだ。
そうしたミトロフの気遣いを、カヌレもまた沈黙から読み取っていた。
ふたりは黙ったまま小刀兎の耳を集め、それをカヌレの背負い袋にしまった。カヌレは壁際のランタンの下で背負い袋の紐を縛り、ふと顔を上げて周囲を確認した。
誰もいないことを念入りに確かめてから、ミトロフに顔を向ける。揺らめく炎色がフードの奥を照らし、そこに隠れた頭蓋の白さの一端を浮かび上がらせた。命が宿っているとは思えぬ姿。そこから、カヌレの声が響いている。
「ミトロフさま。きっともうお気づきでしょうが、わたしは––––」
続く言葉にミトロフが耳を澄ませたときである。
カヌレは途中で言葉を止め、通路を振り返った。ミトロフたちが通ってきた道である。
ミトロフも顔を向ける。カチャン、カチャン、と。金属が石畳を踏む音がする。魔物ではない。人である。
等間隔に通路を照らすランタンの明かりに、その姿が見えた。
騎士である。
「……なんだ?」
ミトロフは首を傾げた。騎士とは誰かに仕えるもの。迷宮にいるのはあまりに不自然である。
騎士の鎧を着ている冒険者、という可能性はあるが、騎士甲冑は市販されるようなものではない。代々、騎士の家に受け継がれるものだ。
甲冑を着ているのであれば、それこそが騎士の証なのだ。
浮かび上がった騎士の姿にカヌレが息を呑むのをミトロフは聞いた。カヌレに心当たりがあるのだ、と分かる。
ミトロフはカヌレの様子を見た。もし逃げるような素振りがあれば、ミトロフはすぐに一緒に走り出す覚悟だった。しかし、カヌレは動こうとはしない。
逃げるでもなく、かといって、騎士に駆け寄るでもなく。ただ、そこに呆然と立っていた。
騎士も急ぐでもなく、庭でも歩くようにミトロフたちの前までやって来て、足を止めた。
「息災のようだな」
甲冑の中から、くぐもった男の声が響いた。
「––––はい、兄さま」
とカヌレは頷いた。
兄さま、とミトロフは目を丸くした。




