太っちょ貴族は商品を売りつける
「君は、昨日も出会ったか? ぼくらのことを見ていただろう?」
少女はびくりと肩を跳ねさせたが、観念したかのように小さく、何度か頷いた。
どうにもひどく怯えている。ミトロフはどう対処すればいいものか、と顎を撫でた。グラシエならどうするだろう、と考える。
ミトロフは驚かせないようにその場にしゃがんだ。両手をあげ、武器は持っていないと見せる。
「なら、これは再会だな。お互いに生きていてよかった。ぼくはミトロフだ。君は?」
「……アペリ・ティフ」
「よろしく、アペリ・ティフ。ぼくは君を助けたい。怪我をしているだろう? 見せてもらってもいいか」
「……どうして?」
「どうして?」
ミトロフはぱちぱちと瞬きをした。
「……どうして、私を助けるの? 私、何も持ってない」
「見返りは求めていない。困っていたら助け合う。それが冒険者というものだ」
ミトロフは微笑んで言った。それがグラシエから学んだ初めての教えである。迷宮では誰もが助け合う。それが冒険者の姿なのだ、と。
しかし、アペリ・ティフは首を横に振った。
「……私、たくさん見た。冒険者は、仲間を見捨てたり、置いて行ったりする。あなたには私を助ける理由はない。放っておいて」
アペリ・ティフはそう言うと、ひとりで立ち上がろうとする。壁にあるいくつもの窪みに手をかけ、左足に重心を寄せる。右足の太ももに怪我があるようだ。薄闇の中でも分かるほどに血が布を染めている。
治療が必要だ。少女の体躯は小さい。これほどの出血は放っておけば命取りになる。
しかし、助けることを拒まれることは、ミトロフは予想していなかった。
どうしてアペリ・ティフは治療を断るのだろうか。
困ったときには助ける。助けられたら、礼を言う。それが冒険者たちを支えるルールだと思っていたのに。
ミトロフはカヌレに視線をやった。それは助けを求める意味だった。
カヌレは立っている場所から近づこうとはしない。被ったフードのために、表情も––––いや、フードがなくても表情は分からないのだが。
ああ、不便だな、まったく。
ミトロフは首を振った。
これが貴族同士であれば、ミトロフはいくらでも相手の考えていることを察することができる。貴族は損得で動く。明快な要求があり、取引がある。常に相手からどれほどのものを奪えるかを考えている。
しかし、こちらから無償で与えると言っているものを拒まれたとき、どうすれば良いのか?
そんな交渉術は、家庭教師は教えてくれなかった。
すっかり立ち上がってしまった少女は、壁に手をついたまま、脚を引きずって歩いていく。
それをミトロフは黙って見送るしかない。アペリ・ティフをどう説得すればいいのか、ミトロフにはわからなかった。
と、いつの間にかカヌレが横に立っている。ミトロフの耳元に顔を寄せると、小声で囁いた。
「ミトロフさま。獣人は気高い種族です。一方的な施しは決して受け取らないと聞きます」
「……なるほど。ぼくが助けるばかりでは、相手の誇りを傷つけることになるのか」
国にはいくつもの種族が住むが、それぞれに文化も思想も大きく異なる。迷宮の中といえど、その根本は変わらないということらしい。
ミトロフはふうむ、と悩み、カヌレの荷物から治療のための道具を取り出した。
「待て、アペリ・ティフ、ぼくはこれを君に売ろうと思う」
アペリ・ティフは立ち止まり、おずおずと振り返った。
「清潔な布と、血止めの軟膏、それに傷を守るための包帯。この丸薬は痛みを和らげるものだ」
「……私は、なにも持っていない」
「知っている。だが、迷宮に住んでいるのだろう? 迷宮の中には貴重な植物や鉱物もあると聞く。それに、そうだな、情報でもいい。他の冒険者が知らない抜け道、迷宮での危険な場所……君が当たり前だと思っている情報が、ぼくらには貴重なこともある」
アペリ・ティフは訝しそうにミトロフを見る。
「……あなたに得がないように思える」
「もちろん得はある。これの売値は、地上の二倍だ。ぼくがこれを手に入れた額の二倍を、君からもらう」
アペリ・ティフは目を細めた。それはミトロフの提案を受けるか迷っているようにも、奇特な人間を観察するようにも受け取れる。
「……私がそれを受け取って、逃げるとは思わない?」
「逃げるのか?」
「逃げない。私はそんなことはしない」
毅然とした口調でアペリ・ティフは言った。それはミトロフの期待した返答だった。
「だったら大丈夫だな。僕も君を信頼しよう。取引成立だな」
ミトロフはその場に道具を置き、数歩下がった。
アペリ・ティフはミトロフを見て、置かれた道具を見て、しばらく悩んでいるようだった。ついに道具に歩み寄り、座り、軟膏を手にした。
脚を抱えるように曲げて、ズボンに犬歯を突き立てる。ビッ、と生地は容易く避け、太ももの傷口が露わになった。
ミトロフの場所からはよく言えないが、太ももの外側を掠めるような怪我である。
剣角兎の砲撃のような一撃が貫通したのではと心配していたのだが、ひとまず安心できそうだった。
大怪我であれば軟膏などは気休めにしかならない。アペリ・ティフを抱えて地上に戻り、施療院に放り込むことになっていただろう。
彼女は血を拭ってから傷口に軟膏を塗ると、布を強く押し当て、包帯をくるくる巻く。それは手慣れた動きだった。
ミトロフは周囲を警戒しながらも、アペリ・ティフの手際に感心した。
「手当ての仕方を知っているのか」
「……冒険者がこうするのを、見たことがある」
アペリ・ティフは包帯を巻き終えると、小さな金属缶から丸薬を取り出した。不審そうに見ながらも、ひと思いに口に入れ、カリ、と噛む。
途端、顔中にぎゅっと力が入り、目尻から涙が溢れた。
「念のために言っておくが毒じゃないからな。そういう味なんだ」
「……冒険者は、おかしい」
冒険者とて好んでは服用しない。苦味と酸味が同時に押し寄せる味わいを、誰が喜ぶだろう。しかし強烈な味は、負傷した人間の意識をはっきりさせるための気付け薬でもあるのだ。仕方ない。
少女は目尻の涙を拭い、再び立ち上がる。先ほどよりもしっかりとした動きだ。強烈な薬の味が効果を示している。
「大丈夫なようだな。どこか寝床があるのだろう? 送ることもできるが」
「……いい」
「だろうな。じゃあ、ぼくらはここで失礼する」
ミトロフが踵を返そうとしたとき、「待って」とアペリ・ティフが止めた。
「なにか、小さな物がほしい」
「小さな物?」
「あなたのにおいが付いている物。そうすればあなたを探せるから」
「そうか、君たちの種族は鼻がよく効くんだったな」
と言っても、お前のにおいがついたものを寄越せと言われるのは、人間としては気恥ずかしい。
ちょうどいい物があるだろうかとミトロフは懐を探り、2枚のハンカチーフを見つけた。
貴族としての習慣が、まだ抜けていない。1枚は汗を拭うのに使うが、もう1枚は女性に渡すために持ち歩く仕立ての良いものである。それは貴族の男子としての嗜みだった。
これならば汚れてはいないし、においも付いているだろう。
ミトロフはアペリ・ティフにゆっくりと近づき、未使用のハンカチーフを差し出した。
アペリ・ティフはその布地の清白さに気圧されたように目を丸くした。おっかなびっくりという様子で受け取った。
「……アペリ・ティフは、あなたと取引をした。必ず返す」
「わかった。だがまずは怪我を治すことを優先したほうがいい。君がまた怪我をしたら、ぼくはまた二倍の値段で治療道具を売りつけるからな」
「……あなたは、変な冒険者」
「まだ新人なんだ。それと、さっきも名乗ったが、ぼくはミトロフだ」
「……ミトロフ」
「よし。じゃあ、気をつけて戻るんだぞ」
ミトロフはカヌレを連れてその場を離れる。通路を曲がる際、振り返ってみると、アペリ・ティフの影はもう見えなかった。




