太っちょ貴族は今日も風呂に入る
「不可能ではない。快適ではないだろうがな」
湯に浸かりながら腕組みをして、獣頭の男はぐるると喉を鳴らした。ミトロフがカヌレから訊かれた質問を、そのまま投げた返事である。
年中、灯りと湯煙の絶えることのない公衆浴場には、いつも人が溢れている。
平民だ貴族だ、獣人だ冒険者だと分類したがる人々も、服を脱いでしまえば皆同じ。誰もが好きに湯に浸かり、日々の疲れを癒す場になっている。
ミトロフもまた、冒険の緊張と疲労を解きほぐすために湯場へと通う日々である。
しかし今日は小刀兎に刻まれた切り傷があまりに沁みるせいで、浴槽の縁に腰を下ろし、なんとか半身浴をするのが精一杯だった。
「不可能ではないと言っても、ギルドがそれを許さないのでは?」
「万事、抜け道というものがある。法にも、迷宮にもな。街で暮らすことに辟易したもの、居場所がないもの、追われたもの……事情を抱えた人間が逃げ込むのに、迷宮は都合が良い。そしていちいちそれを探して追い詰めるほど、ギルドも暇ではないということだ」
「……それが“迷宮の人々“になるというわけか」
「俺も何度か見かけたことがある。彼らは迷宮のどこかに集い、互いに助け合いながら生活をしているようだ。街の物品との取引を持ちかけられたという話も聞く」
「信じられないような話だ。あの迷宮で、人が生活しているなど」
地下10階までの浅い階層ですら、ミトロフは何度、命の危機を感じたか知れない。それほど魔物は恐ろしく、迷宮という環境は手強い。
あそこで自分が何日、生き残れるだろうかと考えても、明るい想像はできなかった。
「適応できた人間だけが生きていけるのだろうさ。あの環境で生きることを選ぶしかなかった事情もあろう」
獣頭の男はぐるりと首を回し、ミトロフを見る。
「お前も10階にたどり着いたか。もうすぐ初心者期間も終わりということになるな」
「……無事に終わることを祈りたい」
「傷を見るに、苦労しているようだ」
ぐるる、と獣頭の男は笑う。
一目で見てわかるほど、ミトロフの身体には赤い直線の傷が何本もあった。今日は小刀兎に翻弄されただけで終わってしまった。まだあの素早さに対応できていない。
「小刀兎が厄介で困っているんだ」
ミトロフはゆっくりと湯に身体を沈めてみる。傷は沁みるが、ちくちくとした痛みにも少しずつ慣れていく。人は適応できる。その通りだ。
熱めの湯はわずかに白く濁り、どこか柔らかい。壁に並んだランタンの灯りに、湯気がもうもうと影を返している。
肩までとっぷりと湯に浸かることで、ミトロフはようやく風呂に入った、という気持ちになった。
ふうううう、と長い嘆息。身体中に響く熱が、凝り固まった疲労を溶かしてくれるようだった。
ミトロフは獣頭の男と並び、ぼうと湯煙の漂う浴場を眺めた。円形の浴場は広く、浸かる男たちの姿は絶え間ない。どこからか笑い声が反響した。
ざば、と湯を跳ね上げて、獣頭の男が立ち上がった。
「トロルを打ち倒し、凶暴な猪をあしらえても、冒険者はみな、兎に苦労する。奇妙な話だろう」
その言い振りは、彼もまた小刀兎に苦労したことがあるようであった。
「あなたのときは、どうやって攻略を?」
「どうやって? 残念ながら、模範解答があるものではない。自分で考え、自分で体得する。それだけのことだろう」
ぐる、と牙の隙間から笑うような吐息を落として、獣頭の男は浴場を出て行った。
その大きな背を見送り、ミトロフはぼそりと呟く。
「……渋いな」




