太っちょ貴族は腹を空かせる
「ミトロフ、われは何と礼を言えばよいのかいまだにわからぬ」
これまでに見たこともないような表情で、グラシエは困っている。おろおろと手の置き場にも悩むようで、腕を組んだり、横髪をいじってみたり。ちらっとミトロフを見上げたかと思えば、すぐに視線を下げてしまう。
「別に礼は必要ないさ。グラシエも一緒に遺物を見つけたんだ。きみの成果だよ」
「じゃが、われはこんな方法は思いつかなんだ。それにこれではわれだけが成果を独り占めしておるじゃろうて」
グラシエが傍らを見る。
そこにはエルフの村へ向かうために用意された馬車がある。グラシエと同郷のエルフたちが控え、厳重に周囲を警戒している。馬車の中には、彼らが––––グラシエが必死に探し求めていた青の仔鹿の角があった。
「運が良かった。知り合いに紹介してもらった蒐集家が、思ったよりもぼくらの遺物を欲しがってくれてさ。コネを使ってあちこちから角を集めてくれたんだ」
「……それは僥倖と呼ぶほかないがの。おぬし、他になにか失ってやおりゃせんか?」
「心配には及ばないよ。使い道に困った遺物を渡しただけさ。な、カヌレ」
と、ミトロフは隣にいたカヌレに話を振る。
グラシエもまた確かめるようにカヌレを見た。カヌレは、こんな時ばかりは、自分に表情というものがないことにちょっとばかし感謝をしながら頷いた。
「はい、ミトロフさまは遺物をお渡しになられただけです」
そう、嘘は言っていない。ミトロフが話さないと決めたのなら、カヌレもまたその意思を尊重しようと思っている。
「ならば、良いのじゃが……それでも、おぬしにはなんと礼を言ったらよいか。われひとりでは、どうにもできんかった。地下5階まで潜ることも、トロルを倒すことも、こうして探し求めたものを見つけることも、全ておぬしと出会えたからじゃ」
「礼を言うのはこっちの方だよ。君には命を救ってもらった。迷宮のことも、冒険者としての暮らし方も教えてもらった」
本当はもっと言いたいこともあったが、それを真っ正直に伝えるには恥ずかしさが勝った。
「この箱のおかげで角の劣化は止まっているとはいうが、できるだけ急いで村に届けねばならぬ。本当はゆっくりと重ねて礼をしたいのじゃが」
「いいさ、気にするな。困ったときは助け合い––––君にいちばん初めに教わったことだ」
ミトロフが冗談めかして言うと、グラシエはようやく目元を和らげた。
「お主のように、人柄良く誠実な者に出会えたのは、聖樹と精霊の導きであったのじゃろうと思うよ。正直、われはあまり人間を好いておらなんだが、お主は特別じゃ」
「どちらかと言うと、人間よりもトロルに似ているからね」
「戯れを言う」
グラシエはころころと笑う。
別れのときが近づいている。それをグラシエは引き延ばさない。ミトロフも理解している。そうしなければならないことは、ふたりともに受け入れている。
「ほんに、楽しい時間であった。冒険者という暮らしも悪くなかったな」
「ああ、本当に。君のおかげだ、グラシエ」
「事が落ち着いたら、われは必ず戻ってくる。改めて礼をさせてもらうゆえな、それまで必ず生きておるんじゃぞ、ミトロフ」
グラシエは視線をカヌレに向ける。
「カヌレ、われがおらぬ間、ミトロフをよく世話してやってくれるかの。これで世間知らずじゃからのう、心配でならん」
「わたしにできる限りお支えしますので、どうかご心配なく」
「うむ。カヌレがいてくれて良かったわ。ミトロフひとりを残して村に帰るなど出来んかったからの」
「君はぼくの保護者か」
ミトロフは呆れた声で言う。お節介を嫌がる年頃の少年のような顔に、グラシエもカヌレも笑う。
「カヌレ、お主の探し物が見つかることも祈っておる。なに、ミトロフはどうも幸運を握っておるようじゃ。こやつといれば遠くあるまい」
「はい、わたしもそう思っております。頼りにさせていただきます」
「……そう期待されても困るんだけどな」
三人は互いに視線と笑みを交わし、小さく頷きを交換する。
これで良いのだ、とミトロフは思う。
「では、行くかの」
グラシエが待っていたエルフたちに声をかける。出立の準備はすっかり出来ていた。
「ではな、ミトロフ、カヌレ。健やかであれ」
「グラシエも」
ミトロフは笑い、カヌレは頷く。
グラシエは馬車の後部に乗り込もうと足をかけたが、ふと思い出したように降りて戻ってきた。
白い長耳に手をやると、銀の耳飾りをひとつ取り外して、ぶっきらぼうにミトロフの胸に押し付けた。
「これは聖樹の祝福を宿した銀じゃ。おぬしの身を守る助けになろう。よいか、預けるだけじゃからな。次に見えたときに、必ず返すように」
「うむ? 分かった。大事に持っておく」
「良きかな」
ではな、とグラシエは背を向ける。銀髪から突き出た長耳が赤く染まっているのを、ミトロフは目ざとく気づいている。ただ、どうしてそう照れているのかが分からない。
グラシエはもう振り返らなかった。
馬車に乗り込み、その馬車が動き出す。やがて通りの雑踏の中に混ざって、その影も見えなくなる。
「––––行ってしまったな」
「はい。寂しくなりますね」
「ああ、本当に。だが、良いのか、カヌレ。ぼくはソロになってしまったから、収入も探索の速度も落ちる。君の探し物を見つけるのに効率が悪いだろう」
ミトロフはごく当たり前の心配をする。
遺物と仔鹿の角で取引をすると決めたとき、ミトロフがカヌレを呼び出した理由は、運ぶには重すぎる木箱を任せるだけでなく、グラシエがいなくなったあとのカヌレの処遇について話し合うためだった。
ソロの冒険者となるミトロフは、カヌレとの契約を解除し、彼女には自分の目的のためにより良いパーティーを見つけた方が良いと考えた。それこそ、ミケルを紹介するつもりですらあった。
カヌレはその時には「では考えます」と答え、今ではミトロフと一緒に冒険者を続けるという。
「たしかに、深い場所を探すのであれば、より効率的なパーティーもあるかもしれません。ですが、迷宮は複雑な場所のようです。現に、ミトロフさまは今まで誰も気づかなかった横道で遺物を発見されたとか。グラシエさまの言うとおり、貴方には幸運がついているように思います」
それに、とカヌレは続ける。
「効率的であるとかよりも、わたしは信頼できる方と一緒に迷宮に行きたいのです。ミトロフさまは、わたしの作った料理を美味しいと言ってくださいましたし、グラシエさまのために大切なものを切り離されました。殿方としてご立派かと思います」
「う、うん? ありがとう。だが、それくらいで充分だ。褒め言葉には慣れてない」
「はい」
くすくすとカヌレは笑う。
そこになんとも言えない歳上の淑女のような余裕を感じて、ミトロフは唸った。そういう女性にはなにを言っても敵わない気がするもので、ミトロフは話題を変えようと考えた。
「そ、そういえば、これをくれたとき、グラシエはずいぶんと照れた様子だったな」
と、手に握る銀の耳飾りを見る。
それは鳥を象ったもので、貴族としての審美眼を持つミトロフからしても美しいものだった。
「……あら、ミトロフさまはご存知なかったのですか?」
「なにをだ?」
と気軽に訊き返したミトロフに、カヌレは伝えるべきか少し迷ったようである。
「女性のエルフは、この方だと心に決めた男性に鳥の耳飾りを渡すのです。貴方のもとにまた舞い戻るという気持ちを込めて。預けるだけ、と仰っていましたから、正式なものではないかと思いますが」
「…………」
ミトロフは後半の言葉をあまり聞いていなかった。
なにしろ、幼いころから豚であったミトロフである。女性とは縁もなく、恋をするなどとそんな考えもなかった。思えば、こうして他人から贈り物をもらうことすら初めての経験である。
今になってグラシエの赤くなった耳の意味を知って、ミトロフは急激に彼女のことを意識してしまったらしい。
「ミトロフさま、お顔が真っ赤ですが……?」
「いや、なんでもない。ああ、まったく大丈夫だ。僕は平常心を心掛けている」
心臓がばくばくとうるさい。こめかみまで熱い。どうしてこういうときには、昇華で手に入れた冷静な思考は発揮されないのだろうと不満に思いつつ、耳飾りを大切に懐にしまった。
「さて、これからどうしようか」
白々しいほどの話題の転換であるが、男性の羞恥に茶々を入れない嗜みをカヌレは身につけていた。
「よろしければ、武器と防具を見たいのですが」
「それは、どうしてまた?」
「グラシエさまが欠けた穴を埋めるというほどの自信はありませんが、盾を持つくらいならできるのではないかと思いました。ひとりより、ふたりで戦う方が安全ではありませんか?」
ミトロフは、赤目のトロルとの戦いを思い出した。最後の一撃、カヌレはドワーフの戦士の大盾を構えて、"緋熊の腕"を防ぎ切ったのだ。
「……それは、すごく頼りになるな。カヌレを頼らせてもらおう。実は、僕も一人で戦うのに不安があったんだ」
ミトロフはふむと頷いて、
「良い店を知ってる。頑固なドワーフの鍛冶屋と、口は悪いが親切な老婆のやってる防具屋があってな」
ミトロフは、グラシエと共にその店に行った日のことを話しながら歩き出した。
日差しは眩しく、ゆるく吹く風の涼しさが心地よい。大通りには人があふれていて、騒がしいほどに賑やかだ。
ふと立ち並ぶ屋台から香辛料の旨そうな香りがした。
ミトロフの腹がぐうううと鳴った。口に涎があふれて、鼻がブヒっと鳴いた。
「––––先にちょっと、飯を食べてもいいかな?」
了




