太っちょ貴族は過去と和解する
ミトロフがカヌレと合流し、常宿を出たとき、眼前に馬車が停まった。
使い込まれてはいるが高級品なのは瞭然で、市民に馴染み深い乗合馬車とは仕立てが違う。貴族が好んで使う馬車である。
扉には各家の紋章が意匠されるのが通例で、そこを見て乗り主を判別する。
ミトロフは、馬車の見慣れた紋章に目を細めた。
「カヌレ、それを持ったまま下がっていてくれ」
「……お知り合い、ですか?」
「父だ」
カヌレはすべて了解したと頷き、腕に箱を抱えたまま、ミトロフから離れた。
同じくして御者が扉を開く。まず出てきたのは執事のアルゾだった。ひと月と経っていないが、ミトロフはその顔を懐かしく思った。
アルゾはミトロフに柔らかい眼差しを向けて目礼し、馬車の下から足場を引き出した。
次いで出てきたのは、ミトロフの予想通り、父であるバンサンカイ伯爵だった。
父は優雅に降りると、ミトロフと対峙した。下から上まで眺めて、フンと鼻を鳴らした。
「貴族の身だしなみというのを忘れてはいなかったらしいな」
「たまたまです。これから人と会う約束がありまして。普段は作業着ですよ」
ミトロフは今、家を追い出されたときに着ていた一張羅を纏っていた。
冒険者となってからは作業着や麻のシャツなど、安価なものばかりを好んでいたが、そんな服のミトロフを見れば、父は盛大に顔を顰めただろうなと思う。
「こんな場所まで来て、どうされたんですか。まさか僕の心配なんてこともないでしょう?」
「最近は冒険者としてよくやっているそうだな」
父は肯定も否定もしない。そうして話をぼやかす貴族的な会話のやり方に、ミトロフは苦笑した。冒険者として関わる人々は……とくにグラシエは、実直に、真っ正直に言葉を選ぶ。回りくどい会話に真意を潜ませる貴族的な会話よりも、ミトロフには心地よい。
それに、分かりきったことを改めて訊ねるまでもなかった、と思ったのだ。
父は心配だからと、そんな安っぽい理由で下町にまで馬車を動かす人間ではない。それをミトロフはよく知っている。
目的があり、それが利になるからこそ動く人だ。
「迷宮で隠された部屋を見つけ、そこで遺物を手に入れたと聞いている」
「……父上が迷宮事情に詳しいとは思いませんでしたね」
「トリュフ侯爵から打診されている。あのご老人は珍しいものを集めるのがお好きでな。お前の手に入れた遺物もご覧になりたいそうだ」
父はミトロフの後ろに立っていたカヌレの、その手に抱えられた木箱に目をやった。
「それが遺物か? ちょうどよい、もらって帰ろう」
父はそれが当然であるかのように言う。そういう人なのだ。すべてが自分の思い通りになるのが当然と思っている。そしてそうするだけの権力を握って生きてきた。
母も兄たちも、それに従ってきた。もちろん、ミトロフも。それが貴族の家の在り方だったからだ。家長の言葉こそが正しく、それに従うことで家を守り、大きくしていく。
だからミトロフは、貴族家の三男として生きていた。家を継ぐ長男、予備の次男、さらにその予備のミトロフ。期待もされない。あるいはかつて父が抱いたかもしれない期待に応えられなかった自分。
父は、自分という存在に目を向けることすらなかった。笑顔もなく、褒める言葉もなく、そして怒ることすらない。
日々の楽しみは食事しかなく、それゆえに丸々と太っていくミトロフを見て、父は眉をしかめた。それでようやく、自分はちゃんと父の世界に存在していて、視界には入っているらしいと気づけた。
豚のように食べ、豚のように肥えたのは、それが自分にできる父への反抗だったからかもしれなかった。
ミトロフは何も持っていなかった。
父に認めてもらえる力も、父に反抗する意思も、独りで生きていく気力も。
父に家を追い出され、ひとり迷宮で野垂れ死ねと言われた。
死を覚悟して迷宮に行った。
そして本当に死を前にした。
それを救ってくれたのは、そしてここまでミトロフを成長させてくれたのは、共に歩いてくれたグラシエのおかげだった。
父はいま、カヌレが持っている木箱を見ている。それは父の推測通り、ギルドで受け取ってきた遺物である。
「申し訳ありませんが、お渡しできません」
「よく聞こえなかったな」
父は、ミトロフを見る。その瞳を真っ向から、ミトロフは見つめ返す。
「この遺物には先約がありますので」
「先約などいくらでも変えられよう。父である私が必要だと言っているのだぞ」
「ですが先日、僕はバンサンカイ家から勘当されました」
「なんだ、そんなことか」
と、父は鼻で笑った。
言葉の裏を察し、ミトロフの真意を見抜いた、という表情であった。
「––––良きかな。ミトロフ、お前を家に戻してやろう。元より、迷宮でひと月も過ごしたなら迎えをやるつもりだったのだ」
ミトロフは笑った。
ブッヒッヒ、と鼻が鳴る。
父は目を細める。ミトロフの笑いが嘲りがであることを敏感に察したのだ。
「お断りします」
と、ミトロフは言った。
「……断るだと?」
「そもそも、迎えなどくれるつもりもなかったでしょう。僕が遺物を手にしたと聞いて、それを利用できるからやってきただけで。貴方が僕を捨てた日に、僕も捨てました。貴方の家も、貴方との繋がりも。貴方はもう父ではない」
「ふん、冒険者ごっこを楽しんで気でも触れたか。貴族という暮らしを捨てて、泥にもがいて生きていくつもりか。私が戻してやると言っているのだぞ」
「泥ですか」
グラシエとの冒険の日々が思い出された。ミトロフの人生の中でもっとも色鮮やかに輝いている。
汚らしい部屋、満腹には遠い食事、命懸けの迷宮、市民のあふれる公衆浴場。
カヌレと出会い、ミケルと出会い、それは仲間となり、友人となり、強敵を越えて互いに称え合い、助け合い、そして信頼し合う。
生活に保証はなく、優雅な舞踏会もない。
服は汚れ、怪我に襲われ、手にできた豆は潰れ、もしかすると明日には死ぬかもしれない。
そんな生活は、たしかに泥の中のようだ。それでも。
「このひと月、僕は初めて生きることができた。心が燃えるように熱くなった。たしかに貴族の生活は安寧だ。食うに困らず、毎日が祝日のようだ。だけど、死んだような毎日をまた繰り返すくらいなら、僕は泥の中でもがきながら自由に生きていきたいのです––––お引き取りください。貴方の息子はもう死んだのです」
ミトロフは毅然と言い放った。
貴族らしい遠回しな言い方ではなく、冒険者らしく実直に、はっきりと意思を見せた。
父は眉間に皺を寄せ、鋭い眼差しをミトロフを見下ろしている。
ミトロフは引かない。父の貴族としての圧力は確かなもので、その眼光には背筋が寒くなる。これまでの自分であれば、見返すことも耐えることもできなかった。
だが、今となっては。
赤目のトロルのほうがどれほど恐ろしいだろう?
そして自分は、あのトロルと戦い、打ち勝ったのだ。
だったら何も恐れることはない。自分は自分の信じる意志を貫き、ここに立っている。父に怯える理由などなにもなかった。
「––––大きくなったな」
ぼそり、と父は呟いた。言葉の余韻すら残さずに踵を返すと、馬車に戻っていく。
ミトロフはその背中を見送る。ふと、こんなに小さな背中だったろうかと、そんなことを思った。
アルゾはミトロフに一礼し、父に続いて馬車に戻った。
馬車が走り去っていくのを、ミトロフは見ている。これまでの人生が遠ざかっていくようだった。貴族として生まれ、貴族として育った。家を追い出されはしても、心の在り方は貴族の三男であるミトロフだった。
それも、ついに終わったのだと思った。
貴族のミトロフは、あの馬車と共に去っていく。
今生、もう父と会うことはあるまい。人生の岐路はここである。父は貴族として。ミトロフは冒険者として。それぞれに自分の道を進んでいくのだ。
「よろしかったのですか?」
いつの間にかカヌレがそばにいた。
「ああ、よかったんだ。これでいい」
ミトロフは頷く。それはどこか、自分に言い聞かせるようでいて。
「……大変、ご立派でした」
「ありがとう。さあ、向かおう。約束の時間に遅れてしまうな」
ミトロフは笑う。豚のように鼻が鳴ることは、もうなかった。




