太っちょ貴族はワルツを踊る
何も考えなかった。
思考は空白だった。
逃れようのない死を前に、人はそれを見つめることしかできないのだと知った。
ふと視界を影が覆う––––それはミケルの仲間であるドワーフの盾戦士だった。
"緋熊の爪"を、金属の大盾が弾く。甲高く澄んだ音が鳴った。
ドワーフは揺らがない。そこに盾として立っている。そればかりか一歩、確かに踏み込むと、大盾でトロルの腕に強烈に体当たりをした。
かち上げるような動きはトロルにたたらを踏ませた。
「素人が振るう武器には恐れがない!」
咆哮のような強い声である。
ドワーフは強大な壁としてそこに立っていた。その分厚く広い背中の、なんと頼もしいことだろう!
ミトロフは盾戦士の勇壮さに息を呑むと同時に、その足が真っ赤に濡れていることに気づいた。よく見れば、足だけではない。背中や腕、額からも出血をしている。彼は瓦礫の崩落によって全身に傷を負っているのだ。
それでも尚、彼はここに立ったのだ。ミトロフを守ったのである。
「……ドワーフの盾戦士よ、感謝する」
「ふん。言葉などいらん。ワシの武器は埋まったままだ。勝つにはお前の針に頼るしかない。行動で示せ」
聞く声はしわがれていて、呼吸は荒く、落ち着かない。それは耐え難いほどの痛みに襲われている証拠であった。
ミトロフは、ぐっと胸に詰まるものを飲み下した。
まさに戦士たる姿への畏怖と憧憬、そしてあまりに情けない自分の体たらく。
恐怖にも諦めにも、この戦士は負けていない。これこそが冒険者なのだと、ミトロフは歯を噛んだ。
その場で左足を地面に強く踏み込む。骨の芯に響くような痛みがある。思わず顔を顰め、目に涙が浮かぶ。
痛い。
だがこの程度がなんだろう。目の前の戦士は、これの何倍もの痛みを抱えて立っている。
足場が悪い。それがどうした。瓦礫の地面に転がることを恐れて、前に進まない人間に未来はない。転がろうが、足が傷もうが、血が流れようが、強く踏み込むことでしか勝利はない。
甘えを、恐怖を、自分を捨てる。
その決意を固めたとき、ミトロフの心にようやく、あの静けさが訪れた。
"昇華"によって得た自分の力。過去の自分の弱さを補うための精神力。
ミトロフは息を吐く。
ブヒィィィィ……。
トロルは牙を剥いて唸り、ミトロフを見据えている。その瞳が血のように赤く濁っていることに気づく。
これは戦いである。
冒険者と魔物という関係ではない。狩り、狩られるものではない。
生きるために、互いに全霊を賭けている。もう逃げることはできない。ここで、勝つしかない。
トロルが走った。
"緋熊の腕"が地面を削るように横薙ぎに振り払われる。
ドワーフは動かない––––いや、もう動けない。彼にはその体力が残っていない。
それでも盾戦士としての矜持が、その一撃を確実に防ぐ。
ガァン、と、腹の底を揺るがすような重い音。
ドワーフは真っ向からトロルの攻撃を受け、完全にミトロフを守った。しかし衝撃に耐えることはできない。瓦礫の山を転がるように吹っ飛ばされる。
そのことでミトロフの視界が通った。
腕を振り抜き、上半身が伸びきったトロルの姿。しかし見つめている。傷のない片目で、ミトロフを睨みつけている。
ミトロフは怯えない。睨み返す。気迫で負ける戦いにどうして勝利があろうか。
瓦礫の山に駆ける。砕けた石畳、土、岩……踏み場もなく不安定な地に、足を突き込むように進む。ミトロフの身体は重い。贅肉が重石のように揺れている。その重みを利用して、爪先を地面に打ち込む。杭のように刺し、そこを起点に進む。
爪先立ちによる点での移動。
それは決闘のための剣技ではなかった。
それは踊りだ。
貴族として必ず身に付けさせられる技術。舞踏会という社交の場で絶対に行われるダンス。幼いころから講師に叩き込まれた動きをいま、ミトロフは思い出している。
爪先による体幹の保持、そして重心移動による足捌き。
ワルツのリズムがミトロフを動かし、瓦礫の中を進む。
トロルが腕を引く前に、ミトロフは細剣を打ち込んだ。"緋熊の腕"を握る手首。その一撃は脂肪を突き抜け、確かに骨まで届いた。
トロルが叫び、腕を振り払う。ミトロフはすでに剣を抜き、くるりと身体を回転させてその場を離れている。
1、2、3。1、2、3。
夜の湖面のように静まった思考の中に、そのリズムだけが繰り返されている。
トロルが真上から"緋熊の腕"を叩きつける。
ミトロフはしなやかに頭上に手を伸ばし、足を大きく広げ、贅肉に揺れる肉体をあくまでも優雅に回転させて避けた。
リズムは繋がっている。引き寄せた肘を解き放つように斬り払う。それはトロルの右膝を裂いた。血が舞う。
怒りの咆哮。あるいは悲鳴。
トロルは引かない。瞳の赤を怒りに滾らせ、ミトロフという小さな魔物を見下ろした。
牙を剥き、睨みつけ、そしてその顔に、一矢が突き立った。
グラシエである。
トロルが苦しみ喘ぐ。
ここだ、とミトロフは剣を眼前に構えた。貴族の決闘儀礼として教え込まれた構えである。ぴっ、と空気を裂いて切先を払い、踏み込むべき一瞬を待つ。
トロルは深々と刺さった矢を引き抜いた。血が舞った。グラシエの二の矢が飛ぶ。それを左腕で受け、苛立たしげに叫んだ。
そこに、ミトロフが踏み込んだ。
トロルは矢を掴んだままの左腕を叩きつける。ミトロフは回転し、避ける。真横でどん、と地鳴り。瓦礫が弾ける。破片が頬を切る。ミトロフは恐れない。痛みを忘れている。
トロルとの戦い方を、ミトロフはもう学んでいる。
レイピアという細い針で勝つには、顔を狙うしかない。そして、ミトロフよりもずっと高い場所にある顔を手繰り寄せるには、まず足を打つ。
一刺。
トロルの膝にレイピアを刺し、抜く。
"緋熊の腕"が振り抜かれる。
ミトロフは回転しながら、身体が倒れそうなまで地面に近づいて避ける。遠心力を利用して姿勢を戻し、再び構え、二刺。
トロルは、振り抜いた腕を逆袈裟切りに戻してくる。その動きをミトロフははっきりと見ている。
––––ワルツが鳴っている。
幼い日の色褪せた思い出の中に、泣きながら踊っている自分がいる。講師に鞭で打たれながら、同じ動きを日が暮れるまで繰り返している。あの音が、リズムが、今ここにある。
ミトロフはくるくると回る。鋭い剣を右手に、瓦礫の山の中心で、ワルツを踊る。死すらもかわして、三を刺す。
それは深々とトロルの膝の関節を打ち抜いた。
叫ぶ声は真上に。膝から力が抜けるように落ちて、声はさらにすぐそこにある。
ミトロフは足を地面に据える。贅肉による巨体の重みを蓄える。最後の一刺に全身全霊を託すために。
膝を突いたトロルが絶叫と共に"緋熊の腕"を振り上げる。同時に左腕も上がっている。両手でミトロフを叩き潰そうとしている。
ミトロフに避けるつもりはない。いや、避けられない。もう足は止まっている。
こうなれば、どちらが先に届くかのみ––––そして、トロルの方がわずかに早い。
だがミトロフは諦めない。
ただトロルの顎下に狙いを定め、その一点のみを狙う。世界はもう色をなくしている。自分と、狙い定めた一点だけが色づいた無音の世界で、ミトロフは身体を伸ばす。貴族として、その決闘のために教え磨かれた剣。
それが届くよりも先に、トロルの腕がミトロフを捉える寸前に、二つのことが同時に起きた。
がぁん、と鈍い音がミトロフを守る。そこにいたのはカヌレである。ドワーフの戦士から借り受けた大盾を掲げ、トロルの必死の"緋熊の腕"を、その怪力で受け止めた。
どん、と狙いを外したトロルの左腕が、ミトロフのすぐ脇を叩いた。その手首には矢が突き立っている。グラシエが弓弦の弾け切れるほどに強く放った矢は、狙い違わずトロルの手首を撃ち抜くことで叩きつける軌道を逸らしミトロフを守った。
ゆえにミトロフを止めるものはなく、しかしミトロフはそのことにすら気づかぬほどの集中で、トロルの首を突いた。それは顎から突き上がり、トロルの命を奪った。
赤い瞳はミトロフを睨んでいた。
ミトロフもまた、トロルを睨み返した。やがてその瞳から光が抜け落ち、その場に崩れ落ちた。ミトロフを下敷きにして。
ブヒィ、と悲鳴があがった。




