太っちょ貴族は死を覚悟する
ミケルが庇っていた少女が、半ば瓦礫に身体を埋めたまま、杖を掲げた。そして唱えたのは、古代の奇跡の一端を現代に顕現するための魔法言語である。
詠唱によって収束したのは水である。それは小さな球体から始まり、人の頭ほどに膨れたかと思うと、剣の形となる。
剣先はトロルを指し、そして飛んだ。
ミトロフはその始終を見ていた。詠唱から発動まで滞りなく、彼女は間違いなく優秀な魔法使いである。
しかし魔法の水剣はトロルに届かない。トロルは握っていた“緋熊“の腕を棍棒のように振り、水剣を弾き飛ばした。
瞬時にグラシエが反応した。腕を振り抜いたことで開いた身体に目がけ、矢を放つ。それは的確にトロルの首に向かった。
「ーーなんというトロルじゃ!」
グラシエが吐き捨てるように言った。ミトロフもまた動揺している。
トロルは首に突き刺さる直前に、矢を掴み取っていた。驚くべき反応は重鈍なトロルに似つかわしくない。
再び、魔法の水剣が飛ぶ。それすらも避け、トロルは握った矢を投げ捨てながら、瓦礫の中のミケルたちに狙いをつけた。
行くしかない、とミトロフは舌打ちした。
駆け出す。瓦礫は大小混ざり、真っ直ぐに進むことすら難しい。それでもミケルたちを守るためには行かねばならない。
「こっちだ! トロル!」
瓦礫の山に上がり、トロルに叫ぶ。こちらに引き付けるために。
だがその行動に意味がないことに、ミトロフは瞬時に気づいた。
トロルは最初からミトロフを見据えていた。
ーー誘われた。
ミケルたちを襲うかのように振る舞ったのは、そうすればミトロフがこの場に上がると理解していたからだ。
トロルは自分に優位な場所で戦うために、罠を仕掛けたのである。
ミトロフは歯を噛む。それに気づいたところで、もう背を向けて逃げる余裕はない。
トロルは”緋熊の腕“をだらりと下げた。腕の先にはガラス結晶のように鋭く透き通った爪が生えている。
その切れ味は推して知るべし。トロルの腕力で振るわれれば、掠っただけで両断されかねない。
足場の悪いこの場所で、絶対に攻撃に当たるわけにはいかない。
しかし、それが可能だろうかー––––?
ミトロフは細剣を右前に、半身となる。踏み込むための前重心でなく、いつでも引けるように後ろ足に重心を置いている。
ミトロフの構えなど関係もないとばかりに、トロルが瓦礫を蹴って突っ込んできた。
上段に振りかぶった腕が振り下ろされる。ミトロフは傾斜を滑り下るように避ける。
”緋熊の腕“の鋭い爪が、叩きつけられた岩を切削した。
その滑らかな断面をミトロフは見た。ぞっとする光景だった。左拳をぎゅうっと握りしめる。
前腕を覆う革のガントレットは、ゴブリンにもコボルドにもファングにも対応できた。しかしトロルを前にすれば、もはや盾とは言えない。ガントレットも、右手に持つ細剣も、心細くなるほどに頼りなく、自分こそはちっぽけだ。
それでもできることはひとつだった。前に進み、剣を刺す。
ゆえにミトロフは足を上げ、踏み込み、レイピアを打ち込んだ。
狙ったのは振り下ろされた右腕である。しかし、トロルはそれを避ける。避けられてしまうほどに、ミトロフの突きは遅かった。
足場だ。瓦礫の上のために思い切りが足りず、重心もブレている。身体が重く、筋力の足りないミトロフには、そこで踏ん張る力がない。ゆえに剣はただただ、鈍い。
ミトロフとトロルが離れた間隙に、狙い違わずグラシエの矢が飛ぶ。今度は掴み取られることはなかった。しかし顔を狙った矢を、トロルは左腕で受けた。刺さりはするが、虫に攻撃されたほどにも痛痒を感じたようには思えない。
ミトロフは視界の端にカヌレを捉えていた。素早く岩の陰を渡り歩きながら、ミケルたちの元に辿り着いていた。身体を埋めていた瓦礫や土を瞬く間に掘り出していく。
ミケルと、ミケルが庇った魔法使いの少女が自由になる。しかしミケルは意識も朦朧としているらしい。起き上がることができないでいる。カヌレはミケルを肩に担ぎ、少女を小脇に抱え、安全圏に向かって離れていく。
ひとまずふたりの救助に成功した。あとふたり、この瓦礫のどこかにいるはずだが、それを見つけることは難しいかもしれない……。
ミトロフが唇を噛んだとき、鋭く名前を呼ばれた。
ハッとしたとき、トロルは拾い上げた瓦礫をミトロフに向かって投げたところだった。
大小様々な石と岩とが視界に広がっていた。
身をかがめ、顔をガントレットで庇う。身体のあちこちを固い棒で殴打されるような衝撃。一際に重い衝撃に左腕が痺れる。左の太ももに強い痛みが疾る。
それでも立っている。直撃はなかった。
ミトロフが顔を上げたとき、トロルは眼前で"緋熊の腕"を振りかぶっている。




