太っちょ貴族は再び強敵と出遭う
瓦礫が滝のように降り落ちた。
その異常に反応できたものは少なかった。
天井は"狼々ノ風"とトロルのほとんど真上に崩れ落ち、すぐさまに砂塵が視界を埋めた。
「ミケル! 無事か!」
ミトロフは目鼻を腕で庇いながら叫んだ。息すら出来かねる土埃のあとに、ようやく視界が晴れていく。
ミケルたちがいた場所には、土と石の山がある。
そこに一際、大きな影。
見て、すぐに分かる。その影はミトロフを見ている。
––––あの、トロルである。
ミトロフと戦い、右腕を差し貫かれたトロルが、そこにいる。
しかし異様なのはその風体である。
身体中に傷を負い、その血は止まっていない。顔には斜めに爪痕が刻まれ、片目を失っているようである。真っ赤に染めた口を開き、歯を剥き出しにしている。
トロルは左腕に、また別の腕を持っていた。緋色の毛皮の太い腕である。
「……あれは、まさか"緋熊"の腕か?」
グラシエが信じられないと呟いた。
「あやつ––––喰ったのじゃ、"守護者"を」
トロルは見せつけるように"緋熊"の腕にかぶりつくと、肉の一片を食いちぎった。咀嚼し、そして咆哮した。
空気が震える。背中が痺れる。ミトロフは耐え難い震えに襲われた。生き物として、恐怖した。あれは、あれこそが、魔物だと。
逃げたい、と思った。今すぐ逃げよう。あんなものと戦えるわけがない。
しかしミトロフは見てしまった。
瓦礫の中に半ば身体を埋めた姿が見えた。ミケルである。黒いローブの少女を庇っている。
あの一瞬で、彼は仲間を助けようとしたのだ。そして彼らはいま、戦える状況にない。
自分たちが逃げれば、どうなるのか。
分かりきっている。
だから、逃げてはいけない。
なぜだろう。とミトロフは思う。逃げないなんて、合理的な判断ではない。貴族として正しくない。
恐ろしい。それでも、戦わねばと思っている。
ミトロフは震える息を鼻から吐き出した。
ぶ、ひいいいい。
身体中に湧いて出た怯えも恐怖も、全てを追い払おうとした。
無理だった。
怖い。身体が固い。逃げ出したい。漏らしてしまいそうだ。
それでも、剣を手放すわけにはいかない。
「グラシエ」と名前を呼ぶ。「ぼくは、戦う。きみは逃げろ」
「水臭いことを言うでないわ、ミトロフよ。われらはパーティーじゃろう。戦うならば共に、じゃぞ」
その顔は揺るぎもなく笑顔だった。ミトロフも笑う。
「わかった。カヌレ、君は」
と最後まで言う前に、カヌレは首を振った。
「わたしのことも仲間だと思ってくださるなら、ここにいることを許してください」
「……なら、頼んでもいいか。ぼくらがアレの気を引いてるうちに、ミケルたちを助け出してくれ」
「分かりました。力仕事ならこの身が役に立ちます」
ふたりが残ると言ってくれたことに、ミトロフは猛烈な喜びを感じた。嬉しい、と思った。ぼくは孤独ではない。仲間がいる。そして今から、友達を助けに行く。
こんなにも恵まれた環境があるだろうか。
ふとそんな考えが過ぎった。
自分という存在に、意味がある。戦う理由がある。生きる理由がある。
だったら、なにも恐れることはない。
––––騎士道とは、死ぬことと見つけたり。
「いや、もちろん死ぬつもりはないが、死ぬ気で行こう」
ミトロフはトロルと睨み合う。ゆっくりと近づいていく。
トロルは瓦礫の上に立ち、一歩、前に進んだ。ざ、と土が崩れる。
足場が悪い。あそこには入れない、とミトロフは考える。
幼いころに剣を学んだ師は、貴族らしくないことまでミトロフに教えた。彼は元々冒険者であり、その技術は実践剣技に基づいていた。
彼はよく、戦いの場のことを語った。戦いやすい場所、戦いにくい場所。自分の得意な場に相手を引き込むことが戦いの前提にある、と。
あの瓦礫の山は、ミトロフが戦いにくく、トロルには適している。
だから攻め込むことはできず、ミトロフは平地でトロルを待つ。
だが、瓦礫場にはミケルたちがいる。トロルがそちらに目を向けたら、飛び込むしかない。
じりじりと睨み合い、息すら細くなるような緊張がミトロフを包んでいる。
背後ではグラシエが矢を構え、カヌレがミケルたちを助ける機会を見計らっている。
なにかのきっかけで、場は動くだろうと分かっていた。一度動き出せば、止まることはできない。
そのきっかけは、瓦礫の中から生まれた。




